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RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第11巻)

【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから
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★(080):ミッシェルポルナレフ 「シェリーに口づけ」 (1971年) (2013.12.4公開)


c0119160_8101712.jpg小生が洋楽に興味を持ち始めた頃(1970年前後)、日本のヒットチャートを物凄いパワーで賑わせていたのは、フランス勢(シルヴィーバルタンやダニエルビダル)とオランダ勢(ショッキングブルー等)でした。1960年代後半、ロックを象徴とする若者文化の激動は世界中に拡がりを見せており、伝統的に頑固なフランス(他国文化の影響を受けない姿勢・矜持が強い)でさえもその潮流に諍えることはできず、旧来のシャンソンとは違う「フレンチPOPS」という新ジャンルが席巻していたのです。その中でも数多くのヒット曲を放っていたスーパースターは「ミッシェルポルナレフ」でした。当時中学2年だった小生は彼の代表曲「シェリーに口づけ」 (本国フランスでは他曲B面扱いで全くヒットせず)を初めて聴いた時、「なんて魅力的な曲だろう~!」と全身がシビれたものだネ~!日本では1971年に大ブレイクし、さらに四半世紀以上の時を経てW杯フランス大会(1998年)に念願初出場した日本代表の非公式応援歌「アレアレ・ジャポン」としても復活し現代の若者の中でも十分浸透している名曲。(同じフレンチPOPS曲ではウォーターボーイズ映画主題歌として若者に再ブレイクしたシルヴィーバルタン「あなたのとりこ」の復活劇と似ているかもしれない・・)。彼のヒット曲はあまりにも沢山あり過ぎて1回では紹介しきれないので前後編(前編はデビュー~1972年頃まで、後編はそれ以降1970年代末まで)に分けて2回掲載したいと思います。彼の数々のヒット曲はやたら「愛」(直江兼続の生まれ変わりかいな?)というキーワードが登場していた記憶があります。「愛のコレクション」(1972)「愛の物語」「愛の休日」「愛の伝説」・・。ミッシェルポルナレフは1944年に音楽家のもとで生まれ(もう古稀を迎える)、5才の頃から天才ピアニストとして才能を発揮していたそうです。しかし青春時代に家出(親に反発)、転職を繰り返していたものの1966年にアマチュアロックのコンテストで優勝、その年に「ノンノン人形」という曲でデビューしています。彼のイメージは、やはりあの独特のトンボの様な宇宙人の様なミラー・サングラス!実は目の障害が原因で色の濃い眼鏡をかけているようですが、小生にとって1970年代初頭のPOPS「3大サングラス男」と言えばエルトンジョン、井上陽水&ポルナレフだったかも・・(笑) 初期時代のユーチューブを見ると「悲しみの舞踏会」(1969)も含めて、素顔のままで歌う彼の姿が公開されていました。ヒャ~初めてお目にかかった!彼は当時ゲイだと言われたらしいですが、お目々が実にパッチリしていますネ~! ファーストアルバム制作ではレッドツェッペリンのジミー・ペイジやジョン・ポール・ジョーンズが参加していたと聞いてビックリ!その後、彼は「愛の願い」(Love me, please love me)(1971)の大ヒットで一躍スターダムに上り詰めました。さらにその勢いは止まることを知らず、立て続けに数々のヒットを放ち1970年代は最高潮(まさに黄金時代)に達した印象があります。彼の曲名は「愛」 ばっかりと思えば悲・哀のパターンも多かった。「哀しみの終わるとき」(1972映画主題歌)、「悲しみのロマンス」「哀しみのエトランゼ」・・、まあ当時の洋楽邦題の付け方って実に安易でこんなもんでしたよね~。前編LASTは彼の代表曲の一つ「愛の休日」(1972)で締めを飾りたいと思います。後編(時期は未定)も「渚の想い出」「忘れじのグローリア」「愛の伝説」「愛のシンフォニー」など、数々の名曲が登場いたしますのでお楽しみに~!



⇒次回は、カナダが生んだ1980年代の象徴的なロック・スター「ブライアンアダムス」の名曲「ヘブン」 (1985)をお送りします。♪\(^◇^)/♪




★(079):ボブ・ディラン 「ライク・ア・ローリングストーン」 (1965年) (2013.11.22公開)


c0119160_21272292.jpgビートルズ、ローリングストーンズと同じ1962年にデビューし50年以上経過した今でもなお、ポピュラー音楽や大衆文化の世界で大きな影響力を持ち続けている伝説ミュージシャン「ボブ・ディラン」の代表曲「ライク・ア・ローリングストーン」を紹介したいと思います。小生はボブ・ディランを殆ど聴いていなかったのでエラソーに語れる資格は全くありませんが、この曲は「ローリング・ストーン誌」(世界的な米国POPカルチャー雑誌)が選んだグレイテストソング500曲(2004年)の中で、ジョン・レノン「イマジン」等を抑えて堂々1位となった名曲なのです。20世紀を代表する天才アーティストとも謂われるボブ・ディラン(1941年米国ミネソタ生まれ72歳)は1962年にフォーク歌手としてデビュー。ウディー・ガスリー(伝説的なカントリーフォークの英雄、放浪の吟遊詩人)の継承者として人気を博し、「風に吹かれて」(1963)や「激しい雨が降る」等のプロテストソングを歌って60年代前半は公民権運動の高まりとともに「フォークの神様」と呼ばれる地位を確立しました。しかし彼は1965年に突然音楽スタイルを変化させてエレキギターを持ってブルースロックのミュージシャンへと変身したのです。コンサート観客(往年のファン)からは大ブーイングの嵐を浴びましたが、しかし当年にリリースされた6作目の「追憶のハイウェイ61」はビルボードチャート3位を記録しロック史に残る名盤(ローリングストーン誌の2003年選出「過去ベストアルバム500盤」の4位に輝く)として21世紀になって高い評価を得たのです。掲載した「ライク・ア・ローリングストーン」(上記名盤からのシングルカット、当時では異例の6分超の演奏曲)はキャッシュボックスでNo.1チャート(彼にとって唯一の大ヒット)にも輝いたのです。言葉でメッセージを伝えることに拘り続ける「フォークソング」というスタイルにディランは音楽性の限界を感じ、サウンドそのものが自由である「ロック」という新しいスタイルの魅力にいち早く気がついていたと云われます。怒れる若者の心の表現をロックという新しいサウンドでボブ・ディランの「言葉=メッセージ」を得ることにより、さらなる進化の段階へと進んでいった姿も うねる時代の流れが彼に対して変化を求めていたからではないでしょうか。その後もザ・バーズの代表曲となった「ミスタータンブリンマン」(1965)を作曲提供したり、「見張塔からずっと」(1967)などの名曲を生み出し、着実にロックPOPS界の大物への地位を固めて行きました。ザ・バーズの「ミスタータンブリンマン」(ボブディラン作曲)のユーチューブを検索していたら、スペシャルゲストに招かれたボブディランがバンドリーダーのデビッドクロスビー(CSN&Yにも在籍)と共演するレアなるお宝映像を見つけて大変喜んでおります!また70年代に世界的なバンドに成長した「ザ・バンド」(第4巻NO33)は元々はボブディランのバックバンドでした。ザ・バンドの映画「ラストワルツ」(1978)で歌い上げている「フォーエヴァーヤング」も掲載しておきましょう。 80年代中盤以降になるとディランは頻繁に来日し、身軽な旅芸人風情の小規模なツアーを企画しており、秋田や倉敷など地方都市も含めて精力的に日本全国を行脚公演していました。先日ディランのユーチューブをチェックしていたら「タイトコネクション」(1985)という曲(ディラン流つぶやきソウル・ゴスペル風なゴキゲンサウンド)のPVに柏崎高校の同級生「H井真悟」(わがブログにも「楽SHINGO」の名前で登場してくれている声優)が出演しているのを発見して本当にビックリしました。準主役級の角刈りヤクザ役(一番最後にもナイフで刺されている奴)で倍賞美津子と共演しています。まだ日本がバブルに向かって走っていたよき時代の東京(赤坂、六本木、新宿)の繁華街の様子が伺える内容になっており、80年代のヘアスタイルや街の明るい雰囲気が実に懐かしい!(もう30年近くも経ってしまったんだなあ・・) 90年代以降もセールスも評価も非常に高い作品を連発し数度目の黄金期を迎え、変身と前進を繰り返しながら、20世紀を代表するアーティストとしての活躍を繰り広げてゆくことになります。まさに「ライク・ア・ローリングストーン」(転がる石)のような音楽人生ではありませんか。さらに驚いたことは、彼が詩人としてもノーベル文学賞にノミネートされているという事実を知ったことです。「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた・・」という評価をされており、既に「ピューリッツァー特別賞」「フランス芸術文化勲章」「アメリカ国民芸術文化勲章」などの多数の栄誉受賞しており、常にノーベル文学賞の上位候補(毎回本命に挙げられる村上春樹に続く位置らしい)になっているとは知らなかった・・!もしもロックミュージシャンがノーベル賞を受賞したらまさに驚き桃の木・山椒の木ですね~!LASTは彼の70年代の代表曲「天国の扉」(1973)で締めたいと思います。





★(078):ポールマッカートニー&ウイングス 「ジュニアズファーム」 (1974年) (2013.11.10公開)


c0119160_22362616.jpgビートルズ結成から半世紀が経過し、今なお世界のスーパースターとして元気に活動を続けているポールマッカートニーが11月に4度目の来日(11年ぶり、ビートルズ時代を含めると5度目)をしました。古希も過ぎているのでもしかしたら最後の来日になるかもしれませんが、老いてますます盛ん!私生活では3回の結婚(2人目の妻には離婚訴訟では47億円支払)、昨年のロンドンオリンピックでは開会式で元気な姿で登場、そして今回の世界ツアー巡行・・と大したものですナ~。ジョンとジョージのソロ時代名曲はすでに紹介済みですが、大御所のポールはまだ未掲載でしたので、前・後編2回に分けて公開(前編はビートルズ解散後から1970年代中盤のウイングス時代)したいと思います。1968年頃から崩壊寸前状態にあったビートルズ・・、ポールは原点回帰(ゲットバック提唱)でメンバーをリードしてライヴ活動を再開しようと努力を重ねましたが皆の心が再び一つになることはありませんでした。1969年「アビー・ロード」の収録を最後にグループの活動は事実上停止、ジョンとヨーコとの結婚(1969年)を契機にポールは、脱退宣言(1970年4月)とともに解散を求める訴訟を起こしビートルズの栄光の歴史はついに閉じられてしまいました。ポールは1969年に写真家リンダ・イーストマンと結婚し、農場に引きこもって初のソロアルバム「マッカートニー」を仕上げますが、発売直前の脱退宣言公表によってポールは「ビートルズを解散させた男」という悪名高いレッテルを貼られることに・・。その後もジョンやジョージとは険悪な関係が続き、2作目の「ラム」(1971年)も評論家から不当な非難を浴びせられていました。小生がちょうど洋楽を聴き始めた頃の思い出深い名曲「アナザーデイ」(ポールの初のソロヒット)は、ポールの人生で孤独感・脱力感に苛まされていた心境が綴られていたのかもしれません。しかしポールはくじけず、愛妻リンダや子供たちに支えられ1971年にウイングスを結成します。翌年リリースしたシングル「ハイハイハイ」(1972)が卑猥な歌詞が原因で放送禁止になったことはビックリしたもんだネ~! ポールがリンダにキーボードを教えて夫婦共にステージに立つことに素人起用だと最初非難を浴びせていた評論家達もだんだん正当な評価を下すようになり、名バラード「マイラブ」が初のNo.1ヒットに輝き、さらに1973年発表の第5作「バンド・オン・ザ・ラン」の時代になると人気・実力は揺るぎないものになっていきました。この年は映画「007死ぬのは奴らだ」の主題歌も大いにはやっていましたネ~。今回の冒頭曲「ジュニアズファーム」(1974)や彼らの代表曲「ジェット」(1974)はテンポに溢れ、まさに油が乗り切った時代の最高に格好いいナンバーです。 ウイングスはメンバーチェンジが激しかったものの名曲・名盤を次々に世に送り出し、世界的なバンドへと成長していきました。1976年「幸せのノック」 がヒットしていた頃は全米ツアーも大好評を博し、ポールがビートルズ・ゲットバック運動で叶えられなかったライヴ活動で世界制覇する夢がついに実現したといえましょう!しかしその後幸せも長く続かず、「しあわせの予感」(With A Little Luck)」(1978)の頃は、メンバーの脱退で3人編成となり、結束力にやや翳りが出てきていた時代だったかも・・。そして愛妻リンダは乳癌に冒され1998年に亡くなってしまい、ポールの最も充実していたソロ時代の中で最も悲しい節目を迎えてしまいました。でも「しあわせの予感」は小生が個人的に一番好きなマッカートニー・ナンバーであり、これからもしあわせに長生きをしてほいしいものです。
*後編(公開時未定)はウイングス全盛期から解散まで、そして1980年代(スーパースター達との競演も含む)の名曲をチョイスします。 「ビートルズ時代の名盤記事」はコチラから






★(077):トッドラングレン 「ハローイッツミー 」   (1972年) (2013.10.29公開)


c0119160_20455284.jpg1970年代前半に美しく切ないメロディメーカーとして静かに(表面的には)ヒットを放ち続けていた「トッドラングレン」(今年8月来日)の数々の名曲を紹介したいと思います。凄い大ヒットを放ったアーティストではないのにも関わらずマニアファンからは絶大なる支持を得ている印象があり、マルチな才能で活躍していた天才アーティストと云われています。世界的な人気と実力を備えながらも日本では今一つ盛り上がらないアーティストの筆頭かもしれませんが、実は彼はGFR,バッドフィンガー,ザ・バンド,ホール&オーツなど数々の有名バンド・アーティストのプロデュースを行い、自身でもジャンルに捉われない幅広い音楽活動を行い多くの作品を発表してきた方なのです。日本で人気ある代表曲は上記掲載の「ハローイッツミー (Hello It's Me) 」(1972)や2枚組大作(3作目)「サムシング/エニシング?」からのシングル「瞳の中の愛(I Saw The Light)」(1972) が最も有名かな・・。全ての楽器(ギター,ベース,キーボード,ドラムス,)を自分で演奏しヴォーカルも様々な声を使い分ける何でもやれてしまう天才マルチプレイヤー「トッド・ラングレン」は1948年米国生まれのミュジージシャン。1967年にナッズというバンドを率いて注目を集め、1970年にソロデビューし「We Got To Get You A Woman」(1970) のヒットを放ち、その後も上記2曲のヒットで全米にその名を轟かせるようになりました。さらに1973年には「GFR」(大音量ハードロックの米国バンド)の名盤「アメリカン・バンド」をプロデュースし爆発的なセールスを打ち立てるなどの業績で彼の名声は1970年代前半で揺るぎないものとなったのです。ヴォーカルはカメレオンの如く変幻自在、アップテンポなロック曲では迫力の声、おふざけ曲ではヨレヨレ爺さんみたいなヘンテコ声、バラードを歌う時は伸びのある透き通った声・・と、何とも器用な方ですね~。美メロ職人としての才能が遺憾なく発揮されている「be nice to me」(1971)や、ロマンスと衝動感のバランスが絶妙に表現された「Couldn't I Just Tell You」(1972)も完成度の高いポップ錬金術師としての片鱗をソロデビュー直後から見せているお気に入り曲。彼の長い音楽キャリアに比例して顔もびっくりするほど長い・・(あっ関係ネーカ)。写真を間違って縦方向に引き伸ばしたのではないかと誤解する程の馬面(ピンクフロイドのロジャーウォーターズも真っ青!)ですが、顔が長いだけでなく音楽的な懐も広く才能の豊かさが並でないことは確かです。切々と歌い上げる「A Dream Goes On Forever」(1974)やダリルホールと共演した「Can We Still Be Friends」(1978:ロバートパーマーとロッドスチュワートのカバーバージョンが最も有名)も必聴ですね。小生の好みで今回は美曲ばかりを集めてしまいましたが、トッドラングレンの作品は、予測不可能な程は曲調の違う曲が同居しその脈絡のなさは相当に「ひねくれ者っぽい一面」を持ち合わせていることが、マニアックなファンにとっては大きな魅力のようです。「普通ではなく何か面白い事をやってくれるという期待感」「確実に楽しませてもらえる安心感」は、彼の溢れる才能や自信から来る職人技の余裕なのでしょう。最後は、 ピアノベースのシンプル曲を重厚感あるバラードで歌い上げた「Wailing Wall」(1971)で締めたいと思います。

  by rollingwest | 2001-11-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(75)