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ボブ・ディラン

★(079):ボブ・ディラン 「ライク・ア・ローリングストーン」 (1965年) (2013.11.22公開)


c0119160_21272292.jpgビートルズ、ローリングストーンズと同じ1962年にデビューし50年以上経過した今でもなお、ポピュラー音楽や大衆文化の世界で大きな影響力を持ち続けている伝説ミュージシャン「ボブ・ディラン」の代表曲「ライク・ア・ローリングストーン」を紹介したいと思います。小生はボブ・ディランを殆ど聴いていなかったのでエラソーに語れる資格は全くありませんが、この曲は「ローリング・ストーン誌」(世界的な米国POPカルチャー雑誌)が選んだグレイテストソング500曲(2004年)の中で、ジョン・レノン「イマジン」等を抑えて堂々1位となった名曲なのです。20世紀を代表する天才アーティストとも謂われるボブ・ディラン(1941年米国ミネソタ生まれ72歳)は1962年にフォーク歌手としてデビュー。ウディー・ガスリー(伝説的なカントリーフォークの英雄、放浪の吟遊詩人)の継承者として人気を博し、「風に吹かれて」(1963)や「激しい雨が降る」等のプロテストソングを歌って60年代前半は公民権運動の高まりとともに「フォークの神様」と呼ばれる地位を確立しました。しかし彼は1965年に突然音楽スタイルを変化させてエレキギターを持ってブルースロックのミュージシャンへと変身したのです。コンサート観客(往年のファン)からは大ブーイングの嵐を浴びましたが、しかし当年にリリースされた6作目の「追憶のハイウェイ61」はビルボードチャート3位を記録しロック史に残る名盤(ローリングストーン誌の2003年選出「過去ベストアルバム500盤」の4位に輝く)として21世紀になって高い評価を得たのです。掲載した「ライク・ア・ローリングストーン」(上記名盤からのシングルカット、当時では異例の6分超の演奏曲)はキャッシュボックスでNo.1チャート(彼にとって唯一の大ヒット)にも輝いたのです。言葉でメッセージを伝えることに拘り続ける「フォークソング」というスタイルにディランは音楽性の限界を感じ、サウンドそのものが自由である「ロック」という新しいスタイルの魅力にいち早く気がついていたと云われます。怒れる若者の心の表現をロックという新しいサウンドでボブ・ディランの「言葉=メッセージ」を得ることにより、さらなる進化の段階へと進んでいった姿も うねる時代の流れが彼に対して変化を求めていたからではないでしょうか。その後もザ・バーズの代表曲となった「ミスタータンブリンマン」(1965)を作曲提供したり、「見張塔からずっと」(1967)などの名曲を生み出し、着実にロックPOPS界の大物への地位を固めて行きました。ザ・バーズの「ミスタータンブリンマン」(ボブディラン作曲)のユーチューブを検索していたら、スペシャルゲストに招かれたボブディランがバンドリーダーのデビッドクロスビー(CSN&Yにも在籍)と共演するレアなるお宝映像を見つけて大変喜んでおります!また70年代に世界的なバンドに成長した「ザ・バンド」(第4巻NO33)は元々はボブディランのバックバンドでした。ザ・バンドの映画「ラストワルツ」(1978)で歌い上げている「フォーエヴァーヤング」も掲載しておきましょう。 80年代中盤以降になるとディランは頻繁に来日し、身軽な旅芸人風情の小規模なツアーを企画しており、秋田や倉敷など地方都市も含めて精力的に日本全国を行脚公演していました。先日ディランのユーチューブをチェックしていたら「タイトコネクション」(1985)という曲(ディラン流つぶやきソウル・ゴスペル風なゴキゲンサウンド)のPVに柏崎高校の同級生「H井真悟」(わがブログにも「楽SHINGO」の名前で登場してくれている声優)が出演しているのを発見して本当にビックリしました。準主役級の角刈りヤクザ役(一番最後にもナイフで刺されている奴)で倍賞美津子と共演しています。まだ日本がバブルに向かって走っていたよき時代の東京(赤坂、六本木、新宿)の繁華街の様子が伺える内容になっており、80年代のヘアスタイルや街の明るい雰囲気が実に懐かしい!(もう30年近くも経ってしまったんだなあ・・) 90年代以降もセールスも評価も非常に高い作品を連発し数度目の黄金期を迎え、変身と前進を繰り返しながら、20世紀を代表するアーティストとしての活躍を繰り広げてゆくことになります。まさに「ライク・ア・ローリングストーン」(転がる石)のような音楽人生ではありませんか。さらに驚いたことは、彼が詩人としてもノーベル文学賞にノミネートされているという事実を知ったことです。「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた・・」という評価をされており、既に「ピューリッツァー特別賞」「フランス芸術文化勲章」「アメリカ国民芸術文化勲章」などの多数の栄誉受賞しており、常にノーベル文学賞の上位候補(毎回本命に挙げられる村上春樹に続く位置らしい)になっているとは知らなかった・・!もしもロックミュージシャンがノーベル賞を受賞したらまさに驚き桃の木・山椒の木ですね~!LASTは彼の70年代の代表曲「天国の扉」(1973)で締めたいと思います。

  by rollingwest | 2002-12-12 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

シンディ・ローパー

★(029):シンディローパー「タイムアフタータイム」  (1984年)   (2012.3.14公開)


c0119160_2229667.jpg「貴方がもし倒れたら、私が受け止めてあげる。何度も何度でも・・」、「シンディ・ローパー」初の全米1位に輝いた名曲「タイム・アフター・タイム」を紹介。彼女は今再び来日し東日本大震災被災地を訪れ励ましの活動を続けています。1984年デビュー曲「ハイスクーはダンステリア」でド派手姿で跳んだり跳ねたりで突然登場したチト年喰ったノーテンキなオネーチャン。その後「マネーチェンジエブリシング」「シーバップ」「トゥルーカラーズ」など次々にヒットを放ち、マドンナと並ぶ1980年代POPシーンの代表的な女性エンターティナー(グラミー賞も獲得)に成長。ファンキーなデビュー曲に相反し、この2ndシングルは叙情溢れ語りかけ心に響く名曲、幅広い音楽性に魅力を感じます。彼女は大変な親日家。売れなかった若いNY時代、定職なく困っていた時に日本レストランのオーナーに拾われ働かせてもらったことを非常に恩義を感じています。1995年阪神・淡路大震災にはチャリティー活動で来日。その彼女が、何と偶然にも昨年3月11日に東日本大震災に遭遇し我々と一緒にその恐怖をリアルタイムに共有体験していたのです。来日で成田空港に到着する時に大地震が発生、各地の空港は閉鎖され緊急措置で横田米軍基地に着陸。周囲は原発事故発生で米国に帰るよう促しましたが、彼女は「音楽の力で日本を励ましたい」と残ることを決め、ツアー強行。思い出せば1984年・・「USAフォー・アフリカ」のチャリティ活動(ウイアーザワールドの曲で有名)で彼女は中核的な存在として参加しています。いまだノーテンキなド派手オバチャンの雰囲気が強いシンディですが、実は慈悲深い観音菩薩様の化身かも・・。「鬼怒鳴門」(kiin・donarudo)の名で日本帰化したドナルドキーンさん同様、貴女は日本を深く愛する外国人の代表だったのか!

  by rollingwest | 2002-12-11 22:22 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

ダリル・ホール

★(070):ホール&オーツ 「シーズゴーン」(追憶のメロディ) (1976年) (2013.8.6公開)


c0119160_6355791.jpg80年代MTV全盛期に米国チャートNo.1を次々と放ち「モダンヴォイス」「プライベイトアイズ」等のミリオンセラー記録で大活躍したダリル・ホール&ジョン・オーツですが、小生は80年代の華やかな時代の彼らには今一つ馴染めず、70年代(やや黒っぽく、ブルーアイドソウルと呼ばれていた頃)の方が好きですねエ・・。この2人は白人でありながら共に小さい時からソウル系の曲が好きでフィラデルフィア(70年代は黒人音楽のメッカ)での出会いがコンビ結成の契機となったそうです。その象徴曲は1976年(大学1年)に下宿のラジオから毎日流れていた「サラスマイル」と、上記に紹介した「シーズゴーン」(追憶のメロディ)。前者は彼らの初ブレイク曲(全米第4位)であり、スローテンポに渋く歌い上げる実に雰囲気が感じられる曲でした。後者(冒頭曲)は失恋したジョン・オーツが詩を書きそれにダリル・ホールが曲をつけた2人の共作で、最初は淡々と寂しく呟き始める静かな流れの中から最後は「She’s Gone~on・・~on!彼女は出て行ってしまった・・。」と絶叫のクライマックス!この悲しい盛り上がりが実に味わい深く、今もRWの心に刻まれています。そしてついに彼らは「リッチガール」(5作目ロックンソウルからのシングル:1977年)が2週間全米1位に輝き、完全にメジャーにのし上がっていきました。しかし、この頃はソウル色がまだ残っていた気がしますねエ・・。しかしAORの象徴プロデューサー「デビッドフォスター」のもとで80年前後からお洒落なPOP路線に完全変貌、「イッツアラーフ」(1978年・赤い断層)や、「ウェイトフォーミー」(1978年・モダンポップ)が続々とヒットを放ち、その後はまさに破竹の勢い・次々にミリオンセラーを記録して全盛期の時代を迎えていったのです。小生は「ウェイトフォーミー」を最後に彼らへの興味を殆ど失ってしまい、80年代以降の垢抜け過ぎたホール&オーツを斜に構えて冷たく見ておりました。華やかで明るい作風とは対極の1977年の名盤「裏通りの魔女」は、ソウル色の強い楽曲やダイナミックなロックナンバーがバランスよく配置され、起伏に富んだ展開・全体構成が光る歴史的な名盤でありました。黒いホール&オーツを愛するファンからはまさに黒のLAST金字塔と称えられているのかも・・。このアルバムからは、「恋の傷痕」等がシングルカットされたものの、大ヒット曲は殆ど生れていません。全体的に暗いトーンの作調がPOPなヒット作を期待するファンには受け入れられなかったからでしょう。しかし、「運命には逆らえない」「恋の魔術」(Don’t Change)など深い陰影ある佳作曲が多く、アルバムに素晴しい統一感を与えています。(聴き込むほど味わいが増すスルメの如し・・) 洋楽史において、歴代ビッグヒット(売上額やTOP10ヒット曲数・アルバム数など)を記録したデュオグループで必ずベスト3に入るのは、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、そしてホール&オーツ。上記に挙げた3者は1960年代・1970年代・1980年代とそれぞれの時代を代表するスーパーデュオでした。次回はやはり、ホール&オーツ栄光の80年代の明るい名曲の数々も取り上げていかねばなりませんね。

  by rollingwest | 2002-12-10 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

スティーブ・ペリー

★(059):ジャーニー 「ホィール・インザ・スカイ」   (1978年)  (2013.3.16公開)


c0119160_7462439.jpgWBC3連覇の偉業を目指し日本中を沸かせた「侍JAPAN」、その応援テーマは「ジャーニー」の往年の名曲「セパレイトウェイズ」でした。「ジャーニー」は、1980年前後に高完成度かつPOPなプログレハード・サウンドで我々を魅了してくれました。そして3月中旬、ジャーニーとサンタナ(前々回紹介した)が同時期に来日しましたネ~!恥ずかしながら不勉強で、2大バンドには深い縁があったことを最近まで知らなかった・・(両者の音楽性やイメージが余りにも違うので想像だにしておりませんでしたが、先日サンタナの記事を書いて初認識)。 1975年、元サンタナのメンバーだったニール・ショーン(ギター)&グレッグ・ローリー(キーボード)を中心にバンド結成、初期はプログレシッブ・ロック志向(インストゥルメンタル中心)で、全盛期のPOP感覚溢れるメロディックな音楽性とはかけ離れており人気・商業的には成功せず完全に低迷期でした。当時は専任ヴォーカリトは不在で、スティーヴ・ペリー(類い稀なる美声のハイトーンヴォーカリスト)はまだ在籍していませんでした。(グレッグ・ローリーの渋目のヴォーカリストが好きという人も多いようですが・・)彼らのことを、「産業ロック」(TOTOも同様)と陰口をたたく評論家まで現れましたが、あまりにも売れすぎたことへの皮肉という部分があったのかもしれません。しかし人気が出るのは当然かも・・、ジャーニーサウンドは、唸らせられる程の素晴らしい編曲と高い完成度、これらはメンバー成熟した彼らの実力と努力の成果というしかありません。今回はブレイクの契機となった4thアルバム「インフィニティ」(1978)からの名曲「ホィール・インザ・スカイ」を紹介します。この名盤は、プログレシッヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、スティーヴ・ペリーの伸びあるヴォーカルを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となっておりプラチナディスクを初めて獲得、「ライツ」「ラヴィン・タッチン・スクゥィージン」等の名曲を次々とヒットさせました。グレッグ・ローリー(ブルース色の音楽志向)は心労理由(彼の音楽性に合わなくなってきたのでしょう)で1980年に脱退しますが、後任に゙ジョナサン・ケインが加入するとさらにPOP路線へと傾倒拡大、「お気に召すまま」「フィーリング・ザットウェイ」等のヒット曲はその後のバンド方向性を明確に示すことになりました。そして1982年には、米国ロック史上の最高傑作の一つ「エスケイプ」(全世界で800万枚も売れた)が生み出されました。この名盤からの代表曲は「ドント・ストップ・ビリ-ヴィン」や「オープン・アームス」などキラ星の如く・・、まさに彼らの全盛期を迎えていくのでした。全盛時代の記事はまた次回、ジックリと紹介したいと思います。
(PS)ところで「スティーヴ・ペリー」とお笑いピン芸人「なだぎ武」、ソックリと思うのは小生だけなのでしょうか?アッ、失礼いたしました~、ペリー様!m(_"_)m (笑)

  by rollingwest | 2002-12-09 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

ケニー・ロギンス

★(128)ロギンス&メッシーナ 「川の流れのように」 (1974年) (2015.8.6公開)



c0119160_21505077.jpg「ロギンス&メッシーナ」・・?今時の方にとってはまたも「誰それ~?」との反応が返ってくる気がしますが、我々世代では1970年代の代表的なアコースティックデュオのひとつ、S&G解散後からE・ダン&JFコーリー登場前の空白時期に活躍していた思い出のグループです。実はメンバーの片割れロギンスとは、「フットルース」や「トップガン」(デインジャーゾーン)など数々の映画主題歌をヒットさせ、1985年「ウイアーザワールド」(USAフォーアフリカ)にも参加したあの有名なケニーロギンス( 1980年代を象徴するアーティスト)なのです。RWの初出会いは、深夜ラジオから毎日流れていた大ヒット曲「ママはダンスを踊らない」(1972)でしたが、1980年代以降でケニーロギンス(パワフルでオシャレ・垢抜けたイメージ)を認知した人にとっては「彼がこんな泥臭くおとぼけチックな曲を歌っていたとは・・!」と意外な経歴に驚くかもしれません。この次にヒットした「放課後のロックンロール・パーティー」(My Music)(1973)も同様路線で、前年ヒットしていたポールサイモン「僕とフリオと校庭で」と並ぶお茶目で楽しい学校ネタ曲でした。またRWがよくラジオで聴いていた彼らの代表曲「愛する人」(Thinking Of You)(1972)は軽快で爽やかなほのぼの路線、淡々と歌い上げる「ピースオブマインド」(1971)を聴けばやはり彼らの基本線はフォークPOPデュオと認識できます。それもそのはず相方のジムメッシーナはあの伝説的なフォークロックバンドだったバッファロー・スプリングフィールド(CSN&Yの母体)やポコ(カントリー・ロックの源流バンドの一つ)に参加していたのですから・・。上記に紹介した「川の流れのように」(1974)は三拍子シンプルな曲ながら美しいハーモニーや聞きやすいメロディが印象的、その他にも「ダニーの歌」(1971)など叙情詩的なアコースティック美曲の数々は本当に魅力的です。しかし今回の記事編集で再認識したのは音楽性の幅広さ、ロカビリー・カントリー・ソウル・ジャズ・プログレを交えて自分達のサンウンドに創り上げている点です。4作目マザーロードからの名曲「ビー・フリー」(1974)は弦楽器(バイオリンとバンジョー)がコラボする長大曲(6分59秒)、カントリーロックとプログレが合体した雰囲気で、複雑構成ながらも手作りで叙情性溢れる壮大で独特な世界を表現しています。また「アングリーアイズ」(1972)もジャズロックと融合したような多彩かつ壮大なる構成(エレキギター、サックス、フルートの競演)!初老2人のボーカルはCSN&Yの雰囲気も醸し出しており、実にいい味を出しています。彼らの音楽性のマルチぶり・奥深さは、ホンワカムードを演出するジム・メッシーナの絶妙ギターやカントリーフィドルの浮遊する楽しさ、間奏バイオリンや美しいケニー・ロギンスのコーラスワーク、ジャズやプログレとの融合も目指した演奏全体の濃密度・・、溢れる才能と先進的な姿勢がコンビを組んだ5年間(1972~1975)に静かに花を咲かせました。 最後を飾る名曲は「プー横丁の家」(1971)、クマのプーさんをイメージするほのぼの曲はケニー・ロギンスがプロになる前(高校生時代)に作曲し、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドがヒットさせた名曲です。ロギンス&メッシーナは本当に素晴らしき1970年代を静かに控えめに彩ってくれたデュオでした。

  by rollingwest | 2002-12-08 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

ブルース・スプリングスティーン

★(044):ブルーススプリングスティーン 「明日なき暴走」  (1975年)  (2012.8.26公開)


c0119160_64915100.jpg70年代ロックシーン金字塔の一つ、ブルース・スプリングスティーンの衝撃的な名曲「明日なき暴走(Born To Run)」 (1975)を初めて耳にしたとき、鮮烈な印象を受け鳥肌の立つような興奮を覚えました。この疾走感と緊張感、これぞ「ロック」の真骨頂!グイグイ迫って来る力量あるブルースの激しいボーカル、それを支えるバンド演奏も実に素晴らしい~。クラレンス・クモンズ(レコードジャケットでブルースが寄りかかっている左の人物)の強烈サックスもこの曲に溢れる疾走感を一段と際立たせています。ブルース・スプリングスティーンは70年代中盤~80年代に活躍した米国を象徴するロックミュージシャンです。最も有名な曲「ボーン・インザ・U.S.A.」(1984) のイメージ(ロック版ランボーみたいな星条旗を振り回すマッチョなヒーロー)が強すぎる感がありますが、1973年デビュー当時は「ボブディランの再来」と称されるシンガーソングライターだったのです。ロック一辺倒ではなく、ハーモニカやピアノの演奏も交えた哀愁的なシンガーソングライター的な名曲(「リバー」「サンダーロード」等)も数多く残しています。3rdアルバム「明日なき暴走」で爆発した圧倒的なロックサウンドで彼は一挙に大ブレイク!その後MTVのブームにも乗り歴史的なチャリティ「ウイアーザワールド」(1985)にも参加、世界的なアーティストへと登り詰めていきました。彼のロックへの姿勢は、演奏形態・技巧・楽器奏法は全く関係なく、迸るエネルギーをストレートに表現し叫び続けるもの。「オレ達は走るために生まれてきたのさ」・・(Born To Run)、そんな衝動に駆られる程のパワーが爆発した70年代象徴の名曲でした。

  by rollingwest | 2002-12-07 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

マイケル・ジャクソン

★(062):マイケルジャクソン 「ベン」  (1972年)  (2013.4.27公開)


c0119160_15555658.jpg「King of Pops」と称せられる「マイケルジャクソン」・・・、今さら詳しい解説は不要とも思いますが、アルバム・シングル・CDの総売上枚数は7億5千万枚で「人類史上最も稼いだエンターテイナー」とも呼ばれたスーパースターでした。2009年、最後の公演と予言した「THIS IS IT」のツアースタートに入る直前(6月25日)に50歳の若さで突然の死を迎え、全世界に強い衝撃と悲しみを与えたのは皆様ご存知の通り・・。しかし、小生にとってのマイケルはやはり少年時代(14才)に切々と歌い上げていた名曲「ベン」(鼠のベンと少年ダニーの交流を描いた映画主題歌)の印象が今も強く残っていますネ~!4人の兄達と結成した「ジャクソン5」のボーカルとしてブレイク、1969年10月発表のメジャーデビュー曲「帰ってほしいの」(I want you back)が全米シングルヒットNO1にいきなり輝きました。その後も天才児ぶりを発揮し、「ABC」「さよならは言わないで」など立て続けに全米1位曲を放ち、この頃からすでにスーパースターとしての地位へ駆け上がっていたのです。 その後、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「WIZ」(オズの魔法使いをアレンジした黒人少年・自分探しの物語)の映画主題歌でも新境地を切り開き、青年に成長すると歌・ダンスはさらに磨きが掛っていき、あのムーンウォークの超絶美技へと繋がっていくのでした。「ジャクソンズ」時代のディスコ曲「今夜はブギー・ナイト」では、ハタチになった青年マイケルが最高にカッコいいネ~!その後はソロデビュー(1979)、80年代の大活躍は言うまでもありません。名盤「オフ・ザ・ウォール」(Rock With You)が大好きでした!)のリリース時には完全脱皮で大ブレイク、歴史的な大作「スリラー」は単独で1億500万枚販売の世界ギネスを記録しグラミー賞史上最多8部門を獲得したのですからまさに驚異的(絶頂期時代の名曲の数々はいつか気が向いた時に掲載予定)。その後、少年の性的虐待や数々の奇行でも話題となりましたが、50歳の若さで亡くなってしまったことは誠に残念!(彼の伝説化には一挙に拍車がかかりましたが・・)。昨年末に「ジャクソンズ」が再結成され来日(グループを一緒に支えた兄のジャーメインも復帰)し、往年のファン彼の在りし日の姿に思いを馳せたことでしょう。少年時代のマイケルと、死を迎える前の大人のマイケルが声と映像でコラボした「アイルビーゼア」のPVを観ればその感慨は一層に深まるかも・・。

  by rollingwest | 2002-12-07 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

ビリー・ジョエル

★(096):ビリ―ジョエル 「イタリアンレストランで」 (1977年) (2014.6.13公開)


c0119160_22285151.jpgエルトンジョン、ベンフォールズ、ダニエルパウター等、過去記事でピアノアーティストを何人か紹介してきましたが、大御所「ビリー・ジョエル」を今まで一度も掲載しておらず大変失礼いたしました~!<(_ _)>。 エルトンジョンに次ぐ世界最高峰のピアノマン、1970年代後半から1990年代前半にかけてポップで親しみやすいメロディラインと、大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で次々にヒットを連発した「ビリー・ジョエル」の名曲の数々を3回に分けてようやくレポートいたしまする。初回はデビューから最大名盤「ストレンジャー」までの中心曲、第2回目は「ニューヨーク52番街」「グラスハウス」からのピックアップ、最終回は「イノセントマン」から1980年代終盤までのヒット曲を3部構成でお届けしましょう。小生がビリージョエルに興味を持ち始めたのは1977年、下宿のFEN ラジオから流れてきた「ムーヴィン・アウト」(小生の最大お気に入り曲)に出遭った時からです。サックスとコラボしたエネルギッシュな曲は実に衝撃的!大都会ニューヨークに生きる市民の生活と心情を逞しい躍動感とともに見事に歌い切っておりました。何故こんなにも印象的だったと言えばやはり中間部で発せられる「La・ca ca ca ca・・!」「ma ma ma ma・・!」の奇妙な連呼とバイクエンジン音とのフィナーレが脳裏に鋭く焼き付いていたんでしょうネ~!この曲は米国で大ヒットしたのですが、日本ではB面扱いで冷遇されていたことを後程知り大いに意外でした。日本ではバラード系曲の受けがいいですが、米国ではノリのいいロックンロール系がヒットしていく傾向があったようです。その後日本で大ブレイクしたのは、ご存知今回の主題盤「ストレンジャー」からの1stシングルカット「素顔のままで」(1977)でした。しっとりと歌われたビリーバラードの代表曲は、前妻エリザベスに捧げられたラヴソングでグラミー賞の最優秀曲賞に輝いています。直訳すれば「そのままの君でいてくれ」ですが、邦題「素顔のままで」は実に的確でセンスが感じられる命名だな・・とあらためて思います。そしてアルバム題名にもなっている「ストレンジャー」(1977)、哀愁漂う印象的なセンチメンタルメロディの口笛が静かに始まり、突然衝撃的なイントロが入りアップテンポな曲が展開されていきます。都会の孤独をかっこよく歌った一度で忘れられなくなるような彼の最大代表曲の一つです。懐かしきジェームスディーン出演のユーチューブ「若死にするのは善人だけ」(only the good die young)(1977)では特有のしゃがれ声が激しく高揚する軽快なロックンロールバージョン!全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し、アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなったビリージョエルですが、音楽人生のスタートは決して順風満帆という訳ではなかったようです。初期の代表曲「ピアノマン」(1973)は、彼がロスのピアノバーでピアノの弾き語りをしている時の失意の経験を元にして作られた曲だったとのこと。「ニューヨークの想い・NY物語」(1976)も夜景が似合うニューヨークの哀愁曲ではなく、ロスのピアノバー時代のことを歌っているらしいですが、よほど辛い思い出があるらしく彼はあまりそれを語ろうとしません。再び名盤「ストレンジャー」からの佳曲へと記事を戻しましょう・・。今回、メイン掲載した「イタリアンレストランで」 (1977)はシングルカットこそされませんでしたが小生の最大お気に入り曲(初期エルトンジョン的雰囲気も・・)です。名盤「ストレンジャー」の中で最もスケールが大きい優雅な曲としてビリーファンからの人気が高く、また本人自身も好んでステージ゙で取りあげています。冒頭部分は静かにシットリ歌い上げ、突然アップテンポの明るい曲に転調、ビートルズを意識したような壮大に展開していく連続構成曲はストリングスでのクライマックスを迎え、最後は再び美しいハーモニー(ピアノソロ・ボーカル&サックス)を奏でながら余韻を残しながら静かに閉じられていきます。第1回記事のフィナーレ曲は、日本人の琴線に触れる隠れた名曲「シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン」(1977)で締めることにいたしましょう。これも「素顔のままで」と同様に 彼のキャリアを支えた前夫人エリザベスへの愛の賛歌でした。まだまだビリージョエルのヒット曲は多くあり、次はどんな内容で紹介していきましょうか・・。第2回目は数年後になるかと思いますがお楽しみに~!

  by rollingwest | 2002-12-06 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

ケニー・ロジャース

★(087):ケニー・ロジャース 「ギャンブラー」(1977年) (2014.2.25公開) 


c0119160_11201555.jpg「愛のメッセージ」(1979)などのバラード名曲で今や米国を代表するポップ・カントリーシンガーとして揺ぎない地位を確立している大御所「ケニー・ロジャース」を前編(~70年代)後編(80年代~)に分けて紹介したいと思います。地方から大学入学で上京(1976年)、四畳半下宿での楽しみはFENラジオから絶えず流れてくる最新の米国ヒットチャート曲の数々でした。「全米TOP40」やウルフマンジャック、チャーリーツナ等のコーナーが主な情報源でしたが、カントリー番組もありほのぼのとした米国カントリー音楽にも親しんでいった時代です。当時よく耳にしたのは、しわがれた声でポツポツと歌う髭面のオッサン「ケニー・ロジャース」・・。「ルシール」(一番最後の曲)や「弱虫トミー」(1979)などの地味ながらも味わい深いヒット曲がラジオから沢山流れていました。ケニー・ロジャースは1935年テキサス・ヒューストン生まれ、音楽愛好家の家庭に育ち少年時代から教会合唱団で歌っていたとのこと。1967年ファーストエディティションを結成し1969年には「町へ行かないで」のヒット曲が全米ポップヒットチャートも賑わすようになりました。1976年グループ解散後、ソロに転身してカントリー界入りし「デイタイムフレンズ」(1977)や70年代の名盤「ギャンブラー」(1977年・上記主題曲)によって徐々にブレイクしていった感じです。その後はバラード路線に力を入れ始め「シー・ビリーヴス・インミー」(1978)をきっかけとして耳心地のいいヒット曲を多く放っていきます。80年代にはライオネルリッチー等と交流を深め「レイディ」(後編で紹介)が世界的なプラチナヒットを達成しPOPS面でも大御所的な存在となったのです。1985年は「USA・フォー・アフリカ」(マイケルジャクソン、スティーヴィーワンダー等のスーパースター達たちが集った)の「ウィアー・ザワールド」のレコーディングにも参加、また多くの女性アーティストとデュエット曲を歌っています。(美人好きだネ、このオッサンは・・) 今回前編のLAST曲は、まだカントリー主体で渋さをたっぷり残していた頃の名曲「ルシール」(1977)を紹介して一旦締めくくりといたしましょう。

  by rollingwest | 2002-12-05 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(0)

サイモン&ガーファンクル 「サウンド・オブ・サイレンス」

★(016):サイモン&ガーファンクル 「サウンドオブサイレンス」 (1965年) (2011.11.5公開)


c0119160_1041947.jpg「サイモン&ガーファンクル」・・、ビートルズやエルトンジョンと並んで、小生に洋楽の素晴らしさを教えてくれた恩人です。小学校時代(1967)に不二家CMで流れていたS&Gの「サウンド・オブ・サイレンス」を聴いて感銘。半音のイントロギターから、透明感あるガーファンクルの美しい声、それに合わせるポールサイモンの低音ハーモニー、静寂をテーマとし暗闇の中から響いてくるような美しいS&Gのアコースティック世界には、詩の中に強いメッセージが秘められていました。洋楽に本格的に興味を持ち始めた13歳の頃、「赤い限定盤:S&Gグレーテストヒッツ」を購入、これこそ小生が生まれて初めて買ったLPレコード。この永遠なる名曲はS&Gとして初めてレコーディングし、1stアルバム「水曜の朝・午前3時」(1964)に収録された作品でデビュー時は全くヒットしませんでしたが、あるプロデサーューがエレクトリックギターを加えたアレンジでリリースしたら翌65年に全米ヒットNo.1に輝いてしまったのです。この大ヒットで事実上活動休止だったS&Gは再結成、映画「卒業」(「ミセス・ロビンソン」に誘惑される主人公ダスティホフマンが娘役キャサリンロスへの純愛を貫く物語)のテーマソングとして大ヒットを記録し」、「スカボロフェア」などの名曲でS&Gを世界的アーティストに押し上げました。その後、「コンドルは飛んでいく」「ボクサー」そして最大名曲「明日に架ける橋」など数々のヒット曲を生み出し、小生も洗練された美しいフォークロック世界に一遍に虜となりました。彼らは5枚だけのアルバムを残し1970年に解散してしまい、その後ソロでそれぞれが独自の道を歩み始めます。しかし1981年にセントラールパークで再結成、翌年来日し往年のファンを喜ばせたのです。2度目の来日(1993年)はカミサンと東京ドームに公演を聴きに行き彼らと初対面(当然電光掲示板越しですが・・)したことがいい思い出です。小生の一生敬愛する懐かしきアーティストとしてS&Gの名曲を数多く紹介していくつもりです。

  by rollingwest | 2002-12-04 00:00 | 洋楽(ロック・POPS)