RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第16巻)

【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから

c0119160_5574570.jpg



★(105):ニッティ・グリティ・ダートバンド 「ミスター・ボージャングルズ」 (1970年) (2014.10.8公開)


c0119160_22242672.jpg1970年代カントリーロック分野で我々世代の心に残っている「ニッティ・グリティ・ダートバンド」の最大ヒット曲「ミスター・ボージャングルズ」を紹介いたしましょう。それにしても彼らのグループ名は実に長ったらしい・・(以降は「NGDB」と表記)、直訳すると「愚直で埃だらけの汚らしいバンド」となります。何か自虐的な名称にも見えますが、その精神には「自分たちはあくまで洗練されることなく、泥臭いカントリーを地道にやっていくぞ・・」みたいな主張があるように思えます。今や、彼らの名を知る人は殆どいませんが、「Bayou Jubilee」「You Made Life Good Again」などを聴いてみるとこのグループはまさに初期イーグルスの雰囲気(Take It Easy 等)とそっくり!カントリー系ロックバンドとして後続登場したイーグルズの方はその後本格的なロック・壮大バラード路線に転身して米国を代表するビッグな存在となりましたが、片や「NGDB」の方は1966年結成から現在に至るまで一貫して(バンド名の通り)地道に泥臭くカントリーだけを演奏し続けてきたベテランバンドなのです。商業的成功には殆ど縁が薄い存在ですが、意外にも彼らはオールマンブラザーズやジャクソンブラウン、ケニーロギンス等とも縁があり、カントリー界とロックを結ぶ架け橋的な存在として高い評価を得てきました。1967年「Nitty Gritty Dirt Band」でアルバムデビューした時はフォーク&カントリーの異端児として話題をさらいましたが、その後泣かず飛ばずとなり1969年にはついに一度解散してしまいます。しかし、1970年新たなメンバーで再結成し、5thアルバム「アンクルチャーリーと愛犬テディ」の名盤と、全米シングル9位を記録した大ヒット曲(上記掲載)「ミスター・ボージャングルズ」を引っ提げてロック界にカムバックしたのです。ほのぼのとさせる哀愁漂う渋い名曲は米国カントリー歌手ジェリー・ジェフウォーカーのオリジナル曲(1968)をカバーしたものですが、RWとしては「NGDB」の代表曲という印象が強いですね~!また同アルバムからは ケニーロギンズ(無名時代)が何曲か提供しており、その中からヒットした「プー横丁の家」(1970)も思い出深い曲・・。このアルバムはプラチナディスクに輝き、グラミー賞の2部門にノミネートされるなど一躍彼らはビッグスターの仲間入りを果たしたのです。続いて彼らが挑んだのはナッシュヴィルでカントリースター達と共演したアルバムを制作することでした。デビューした当時はカントリー界からは白い目で見られていた「NGDB」でしたが、彼らのカントリー音楽に対する造詣の深さと敬愛の念は認められ、初の大がかりなロックとカントリーの共演が実現しました。ロックバンドがカントリーの聖地ナッシュヴィルで録音したり、カントリースターと共演することは実に異例のことで、その模様は歴史的名盤「永遠の絆」(何と3枚組)として発表、その中には「グランドオール・オープリーソング」などの名曲が収められています。彼らが演奏する音楽はまさに伝統的庶民派カントリーロックスタイル!バンジョー、マンドリン、アコーディオン、アコギ、ハーモニカがメインで鳴り響かせる作品が多く、「Long Hard Road」(アメリカ開拓史の映像が叙情的)や、「Fishing In The Dark」など、一曲一曲が個性的で古き良き時代のアメリカを感じさせてくれます。70年代後半に入るとさすがに時代の変化を感じ取り、「ダートバンド」と改名して一時ポップな方向性を打ち出しますが長くは続かず、1980年代に入ると再びバンド名を「ニッティ・グリティ・ダートバンド」に戻しました。やはり「One Good Love」(白黒映像が格好いいカントリーロックの真髄)みたいな曲で路線をぶらさずに一貫して継続することで歴史的価値が深まっていくことの表れかもしれません。現在はカントリーバンドとして安定した活動を続け息の長い存在となっていますが、RW洋楽コーナーはロック・POPS記事なのでLAST曲は彼らがリンダロンシュタッドと共演した「アメリカンドリーム」(1979年、全米第13位のヒット曲)で締めくくりとしたいと思います。

⇒次回は、1972年の懐かしい秋を象徴する名曲ヴィグラス&オズボーン「秋は一人ぼっち」をお送りします。♪\(^◇^)/♪




★(104):グランドファンクレイルロード 「アメリカンバンド」 (1973年)  (2011.9.25公開)


c0119160_13395742.jpg1970年は小生が洋楽ロックの魅力に憑りつかれた記念すべき年、そして翌1971年は日本の洋楽ロックファンにとっては、大物アーティスト(BBキング・BS&T・シカゴ・CCR・エルトンジョン・レッドツェッペリン・EL&P・ピンクフロイド・フリー・GFR等)が次々に初来日を果たした画期的な年となりました。今でこそ洋楽ロック映像や生演奏に触れられる機会は当たり前のことですが、昔は夢のような出来事だった時代、1年間でこれだけのビッグネームが一挙初お目見えした1971年はまさに特筆される衝撃イヤーだったのです。当時RWは中学2年生・・、LIVE上京の実現などあり得るはずもなく、音楽雑誌「ミュージックライフ誌」を毎月買い込んで来日記事の詳細を読みながら興奮していたものです。その中でも伝説的なコンサートとして今でも語り継がれているのが「グランドファンクレイルロード」(以下GFRと呼称)が雷雨の中で行った「後楽園球場」(東京ドームの前身)LIVEでした。当時の大物コンサート会場は武道館が定番でしたが球場で行われるのは初めてのこと、当時「世界一デカい音を出すバンド」といわれたGFRの初来日公演は大きな話題となったのです。当日は会場に入れなかった多数の若者が暴徒化して放火・投石の末、場内乱入する大荒れ状態となりました。そんな異様な雰囲気が頂点に達してさらに突然の閃光と轟く雷鳴、いよいよ豪雨の中でGFRが登場し、「ハートブレイカー」をついに歌い上げた・・こんなLIVE記事をRWは食い入るように読み漁り、疑似体験の様な興奮と自己満足感を覚えたものです。1969年にドンブリューワー (ds)とマークファーナー(vo、g)とメルサッチャー(b)の3人で結成され、バンド名は米国鉄道会社「Grand Trunk Western Railroad 」を文字って名付けられたとのことです。レッドツェッペリンの米国公演の前座を務めた時、その凄まじい歌と演奏力で聴衆を熱狂させたことが話題となりロックファンにその名を轟かすようになりました。デビュー盤「On Time」(1969)からは上記掲載した哀愁たっぷりのハードロックバ ラード「ハートブレイカー」が輩出、2nd「Grand Funk」からはgwan・gwan~と歪めたギターが迫るヘヴィなナンバー「パラノイド」(1969)、アニマルズの名曲「孤独の叫び」(Inside Looking Out)(1969)はテンポを落としGFR流のヘヴィなロックになっておりインパクトが強い彼らの代表曲ともなりました。「サバイバル」(1971)は3人が原始人に扮したLPジャケットで小生の脳裏に強く印象が残っており、デイヴメイスンのファンキー曲「フィーリン・オールライト」やストーンズ代表曲「ギミーシェルター」をカバーしています。当時のロックは反戦姿勢も強く打ち出されておりGFRも「戦争をやめよう」(1971)で大いにPRしていました。ただし当時のRWは英国プログレシッブロックに嵌っていたので、ストレートで無骨なアメリカンハードロックが今一つ後進的な音楽に感じられて距離感を置いていたのも事実でした。しかし冒頭曲「アメリカンバンド」(1973)は、メロディも詞もシンプルで力強く一度聴いたら忘れないハードロックの名曲だと大いにお気に入りとなりました。さらに「ロコモーション」(1974)はハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ大ヒット曲となり見事全米1位に輝いています。2度目の大ブレイクの功労者は名プロデュースで自身も多彩な才能を発揮したトッドラングレンであることは有名ですね。1970年代中盤からは米国プログレハードが人気主流となって、GFRも2度の解散と再結成を重ねる紆余曲折もありました。しかしアメリカンロックの醍醐味はブルース・スプリングスティーン等に受け継がれ見事に米国ロックの主流となっています。小生も年齢を重ねるにつれて、新しいことなど何もなくひたすら愚直に「ロックの原点」を追求するこの姿勢が噛みスルメの味わいのように思えてきました。GFRが築き上げた功績や誇りは、「我々はアメリカンロックの王道を突き進んできたバンドだ~!」という魂の叫びが冒頭掲載曲に籠っているような気がします。締めは「アメリカンバン」の次にヒットした曲「ウォーク・ライクアマン」(1973)で・・




★(103):ラーセンフェイントンバンド 「今夜はきまぐれ」 (1980年) (2014.9.13公開)


c0119160_22473511.jpg80年代洋楽はソフト路線AORの他に、ジャズ・ソウルとロックを融合した「フュージョン音楽」(クロスオーバーとも呼称)が華やかりし時代でした。ボーカルが入っていたらAOR、インストルメンタルだけだったらフュージョンなんて・・適当なジャンル分けをしていた感じだったかもしれない。(笑) お洒落で都会的な雰囲気など到底似合わないRWも、当時は無理してラリーカールトン、リーリトナー、ジョーサンプルなどのアーティストを聴いていましたが今一つ夢中にはなれなかったなあ・・。そんな中で、「ニールラーセン」(Key.)と「バジーフェイトン」(Gt,Vo.)という2人のテクニシャンアーティストが結成した「ラーセンフェイトンバンド」は小生お気に入りのスーパーユニット。フュージョン風味の小粋なAORという感じでとにかくカッコイイ!当時はかなり嵌っていましたねえ・・。冒頭紹介の「今夜はきまぐれ」(Who’ll Be the Fool Tonight)は、米国ヒットチャート上位に入った名曲(ブラスとギターの切れ味、ドラム・パーカッションのリズムが見事にMIX)で、彼らのポップでキャッチーなサウンドを聴き一遍に魅了されてしまいました。この名曲が収録されていた1stアルバム「Larsen-Feiten Band」は、1980年当時のAOR・フュージョン名盤として頻繁に採り上げられていた気がします。このデビュー盤には名曲がズラリ!「メイクイット」はホーンの響きとアレンジが秀逸、ダンサブルなナンバーでディスコ(←死語かも?今はクラブかな)で流れてきたら違和感なく踊り出しそうな雰囲気。「デインジャーゾーン」はロック色の強い唸るようなギターが印象的で渋い曲調の運び。「彼女はフリー」(She's Not In Love)はパーカッションが効果的に使われる軽快な雰囲気、サビ部分の切れ良く透明感あるギターカッティングが素晴らしく個人的にもお気に入りの曲です。1982年発表の2ndアルバム「フルムーン」は衝撃的名作(1972)を残した伝説バンドの名前を冠しています。フルムーンというバンドは1970年代初頭にブルーアイドソウルを取り入れ先進的に取り組んでいましたが1980年前後で当該音楽が大きなブームを呼び彼らが再評価されました。その流れを受けてリリースされた名盤「フルムーン」には「ファントム・オブ・フットライツ」「リトルシスター」などの名曲が収められ、洗練されたブルーアイドソウルバンドとして復活を遂げ脚光を浴びたのです。職人気質に溢れPOP&ファンキーかつアダルトな感で高い演奏力を見せた名コンビ、彼らはフュージョン時代の金字塔ともいえる完成度の高い2つの名盤を生み出していたのです。最後は2nd盤からのお気に入り曲「ブラウンアイズ」を聴きながら、30数年過ぎても全く色褪せないAOR・フュージョンの傑作を堪能してみませんか!





★(102):グレンキャンベル 「ラインストーン・カウボーイ」 (1975年) (2014.8.31公開)


c0119160_20232292.jpgグレン・キャンベルは母国アメリカでは一時代を築いたカントリーPOPS歌手(1936年生まれ・もう80歳に近いか・・)ですが、日本では殆ど無名に近いアーティストかもしれません。日本でグレン・キャンベルが一般の方に注目されたのは、40年程前のコカ・コーラCM曲「カミングホーム」(1975)が使われた時ですが、覚えている人も少ないでしょうねエ・・。RWは彼がヒットさせた数々の曲(1960年終盤から10年間)には癒されて結構大好きだった歌手なので今も心に残っております。彼の音楽キャリアの集大成となったのが、上記に掲載した「ラインストーン・カウボーイ」(1975)でしょう。 「♪Like a Rhinestone Cowboy~!チャンチャン!♪ Riding out on a horse in a star-spangled rodeo~♪」 軽快リズムの中で、豪快かつ伸びやかに「ロォ~デオ~!」と熱唱する声は心を揺り動かされるサビ部分、実に爽快感溢れる名曲でした。彼が音楽界でスターだった時期は1967年から1970年代後半までの10年間位でしたが、カントリーとPOPSの垣根を取り払った功績はかなり大きいと言えるでしょう。グレン・キャンベルは米国・片田舎の貧しい小作農家で12人兄弟の7番目として生まれましたが、幼少時期から音楽才能に恵まれカントリー歌手への夢を膨らませていました。彼の成功道のりは決して平坦ではなく最初はロサンゼルスの音楽業界周辺をうろついていましたが、やがてギタリストの腕前を見込まれセッションミュージシャン(ギタリスト)として有名歌手達のレコーディングに参加していくようになります。実は彼は一時的にビーチボーイズの一員だったことがあるのです。 同バンド主力だったブライアンウィルソンがツアー活動から退いたことが契機、スタジオ録音で認められたグレンキャンベルに白羽の矢が立ったのです。数カ月間は代役としてビーチボーイズの面々とツアーを共にしたものの、残念ながらツアー合間の休暇中で怪我をしてしまい已む無く降板した経緯があります。グレンキャンベルがソロ歌手として最初の成功を掴んだのは1967年に「ジェントル・オンマイマインド」のヒットに恵まれたことでしょう。さらに「恋はフェニックス」等のジミー・ウェブ作品を歌うことで、カントリー音楽ファン以外のリスナーにもファンが増えて支持が拡大していきました。この曲は見事グラミー賞(ベスト男性ヴォーカル賞)に輝き、今やアダルト音楽のスタンダードかもしれませんね。「ガルベストン」(1969)はテキサス州ヒューストン近郊町を歌ったもので、よきアメリカの情緒を感じさせる得意分野のカントリー調名曲です。1970年代に入っても「Try A Little Kindness」(1970)や「ラインストーン・カウボーイ」のヒットを放ち続け、この10年間は彼が最も輝いた栄光時代でした。しかし、人気が上がればいつかは落ち目の時期が到来するもの・・。70年代後半から80年代においては、大衆音楽の好みも大きく変わり(ディスコサウンドや都会的音楽が流行)、古臭い哀愁調のカントリー音楽の支持層は激減となり彼の人気も陰りを深めていきました。さらに私生活では、酒とドラッグに溺れて離婚3回など混迷の転落人生を辿ってしまったのです。彼の自伝には、成功から栄光に至った10年間、その後転落の日々(酒・ドラッグ)から立ち直るための戦いや信仰に目覚めた歴史が綴られているとのこと。晩年を迎え、彼は75歳で歌手人生最後のアルバムを発表しました。まだまだ頑張ってもらいたいものですが、実は彼はアルツハイマー病の初期段階にあると知ってビックリしました。少しずつ記憶が失われてゆく不治の病に侵され、やがて歌手能力も奪われていく前に最後のスタジオ録音に踏み切り、自分の元気な声とギター音色を刻み付けておきたいという願いを叶えたのです。ラスト曲は、小生が貧乏学生時代に毎日下宿のラジオから流れて来ていた「サザンナイツ」(1977)を紹介したいと思います。「南半球避暑地のビーチで星空に輝く夜空を見上げながら美女と愛を語らう・・(羨)、四畳半でカップラーメンを啜っていたRWとは何という違いだろう・・」と、何もいいことがなかった青春時代で心を癒してくれたグレンキャンベルの音楽・・。彼の波乱万丈の人生が静かに全うできることを祈念して本記事の筆を置きたいと思います。





★(101):ハート 「バラクーダ」 (1977年) (2014.8.18公開)


c0119160_625437.jpg皆さん、イチローがかつて所属したマリナーズ本拠地の「シアトル」(ワシントン州・最大都市)と謂えば何を連想されますでしょうか?実はボーイング(航空・宇宙産業の中核)・マイクロソフト(ビルゲイツ創業IT最大手)・アマゾン(ネット販売の最大手)・スターバックス(コーヒー)等、世界的な超有名企業の発祥地。そしてロック史においては、60年代に史上最高のロックギタリストと賞賛されたジミ・ヘンドリックス、90年代のオルタナティヴロックで世界を席巻したニルヴァーナなどの出身地でもあります。そして70~80年代では、沢山のヒット曲を当時放ち続けていた美人姉妹(アンウィルソン&ナンシーウィルソン)率いるロックバンド「ハート」を輩出していたのでありました。大学生の頃、貧乏下宿(四畳半)のラジオから小生のハートをズキュンと打ち抜いた小気味いいギターサウンドとハイトーンヴォイスが迫る「バラクーダ」を筆頭に、70年代でリリースされた名曲の数々も一緒に紹介いたしましょう。彼らの人気は70年代後半と80年代後半と2回のピークがありヒット曲数が半端なく多いので、前・後編に分けた記事にしたいと思います。「ハート」は元々アーミーと言うカナダのバンドが母体でシアトルで活動中にアン・ウィルソン(姉)をスカウト、その後妹のナンシーも巻き込んで1975年に正式結成されました。彼女らを全面に押し出したプロモーションを行い(アンはボーカル、ナンシーはリードギター)、1976年に1st盤「ドリームボート・アニー」(夢見るアニー)でデビューしました。デビューシングルは「クレイジー・オン・ユー」、イントロのアコースティックギター(ナンシー)から静かに始まり、突然洗練された軽快ロックに変調していく曲の構成が実にカッコイイ!「夢見るアニー」は勿論アンの愛称、このアルバムは大ヒット(全米7位)となり最高傑作とも称えられておりアン&ナンシーは世界デビューの夢をいきなり叶えてしまったのです。1977年には2ndアルバム「リトルクイーン」を発表して冒頭掲載の「バラクーダ」が全米11位のヒットを記録、さらにビートの効いたロック「Kick It Out」(1977)や「ストレイトオン」(1978)など全米チャート上位を常に賑わす実力を発揮し彼女らの人気は揺るぎないものとなりました。妹のナンシーのセクシーさと胸の谷間が目を引き(中年オヤジ表現だネ~)、「シスターズロック」と呼称されたことからビジュアル優先で人気を博してきたのかと思いきや・・、じっくり聴くとレッドツェッペリンを意識しており音楽の幅が結構広いなあ・・とその実力に感心させられます。アンウィルソンのハイトーンボーカルを聴くとまさに女ロバート・プラントと名付けたいくらいだ!またアコースティック・ギターも駆使する名曲が多い点もツェッペリン影響の一端を感じさせます。抒情的に歌い上げた「ドッグ&バタフライ」(1979)も大好きだったなあ・・。1970年代はシアトル美人姉妹として有名だったハートでしたが、今では姉のアンが激太りでかつての美貌は見る影もなくハートブレイク溜息(破・嗚呼~と・・)が出るばかり・・。ユーチューブはやはり心ときめいた時代の映像ばかりをチョイスしてしまいました。クリストファークロス、エルトンジョンに続き、イメージ映像にばかり拘る修業足らずのRWですが、やはり前編最後はデビュー期の最大ヒット曲「マジックマン」(1976:全米9位)で締めたいと思います。こりゃ、またカッコいい曲なんだな~!途中に迫力のドラマーソロも入り8分近くに及ぶナンバー、これこそ70年代ハートの真骨頂のイメージ!

  # by rollingwest | 2002-04-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(118)

RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第15巻)

【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから

c0119160_4263387.jpg



★(100):エルトンジョン 「ホリディ・イン」  (1971年)   (2011.8.7公開)



c0119160_20492018.jpg3年前の夏にRW洋楽コーナー「My Favorite Songs」(第1回はアルスチュワート「イヤーオブザキャット」)をスタートさせてから今回で何とかようやく100回の節目を迎えることができました。当初記事をレビューしてみると結構あっさりとした文章ばかりでしたが、今ではダラダラした長文を欲深く書いてしまっているなあ・・と反省しきりでございます。洋楽ブロガーメイトの皆様からのコメントが増えるにしたがい完全なマニアック記事になってしまったRWですが、今も暖かくお付き合い頂き大変感謝いたしております。記念すべき100回目掲載は、小生を洋楽趣味に導いてくれたエルトンジョンの初期名盤「マッドマン」からの隠れた名曲「ホリディイン」といたしました。小生は「マッドマン」こそエルトンの最高傑作と評価しており、この名盤に収められている数々の名曲もあわせて紹介したいと思います。小学校高学年にビートルズの活躍やモンキーズのTV番組を見て、洋楽への興味はすでに心の中で醸成されていましたが(我々の世代は誰もが同じかな・・)、本格的にLPレコード(今や死後)を購入して洋楽に嵌ったのは1970年、エルトンジョンやS&Gが入門への誘い人でした。エルトンを初めて聴いて衝撃を受けた曲はやはり「イエスイッツミー」(第1巻:009)・・、「何と素晴らしい曲だ~」と感動に震え一挙に彼の虜となってしまいました。当時は清楚な雰囲気を漂わせたやや吟遊詩人風、「僕の歌は君の歌」「や「人生の壁」などを真摯かつ暗めに歌い上げている初期の姿が本当によかったなあ・・。その後は頭が禿げ上がって肥満化し、アヒルの被り物などでエキセントリックな姿(吟遊詩人⇒ギンギン奇人)に変化していくのを見て、それまでの彼に抱いていたイメージがガラガラと崩壊してしまい本当に悲しかった・・(苦笑) とはいえ、初期時代からのエルトンが当時鉄壁コンビだったバーニートーピンとホモで愛し合っていた仲と聞いていたので、すでに腰が引け始めていたのも事実なのですが・・。小生がエルトン最大名盤と崇める4枚目の作品「マッドマン」には有名なシングルヒット「可愛いダンサー」「リーヴォンの生涯」が収められていますが、やはり本名盤の最大特徴は全編にポール・バックスマスターの荘厳なるオーケストラアレンジが施されていることです。アルバムのテーマ曲「マッドマン」や、アメリカ大陸の先住民の悲劇を壮大に歌い上げた「インディアンサンセット」、この2曲はまさに本アルバムの最大の聴き所となっています。チェロ奏者のバックマスターが奏でる低音域かつ重厚なアレンジは、70年代初期のエルトン作品に残した 功績は大きく、彼の存在抜きでこの当時の作品を語ることはできません。ピアノと野性的なギターが交錯した「レイザーフェイス」も名曲、この頃の暗いイメージのエルトンは実に魅力的でしたね~!上記の掲載曲「ホリディイン」はバンジョーとストリングスとのコラボが素晴らしい佳曲、哀愁と爽快さを併せ持つ不思議な旋律で展開して行くのです。名盤「マッドマン」には捨て曲は一つもありません。エルトンが丁寧に作り上げた偉大なるコンセプトアルバムで有終の美を飾った哀愁バラード「グッドバイ」を聴いて頂き、節目の100回目を締めとしたいと思います。そしてRW洋楽コーナー「My Favorite Songs」はヨボヨボの爺々になるまで500回の節目を刻むまで頑張り続けて行きたいと考えておりますので今後もご愛顧の程よろしくお願いいたします!<(_ _)>

(PS):過去に紹介した「エルトンジョン」特集記事(2009.1.24)はコチラから



⇒迫力の姉妹ボーカルで一世を風靡した「ハート」の「バラクーダ」(1977) をお送りします。♪\(^◇^)/♪





★(099):クリストファー・クロス 「セイリング」 (1980年) (2014.7.24公開)


c0119160_20193382.jpg久しぶりに80年代AORアーティストをご紹介!RW洋楽コーナーもついに100回目の大台にリーチがかかり99回目記事を迎えました。ブログ洋楽仲間の某女史を真似して数字駄洒落でTOTOの名曲「99」を掲載しようかなとも思いましたが、アーティスト名の頭文字に引掛け「クリストファー・クロス」を取り上げることにしました。あっ、ドーデモいいことですみません。80年代初頭はまさにAORブームが華やかりし時代・・、社会人デビューしたての頃(新入社員配属地は北海道)にボズスキャッグス、ボビーコールドウェル、ランディーヴァンウォーマー、エアサプライ、その他デビッドフォスター系アーティストを夢中になってカセットテープに録音しまくり(当時は貸しレコード屋が百花繚乱)、カーオーディオBGMを流しながら北海道ドライブを楽しんでいたものです。(その後、小生はAORが皆同じようなサウンドに聞こえ食傷気味となりついに飽きてしまいましたが・・) 数々のAOR名盤の中でRWが最も嵌ったのはクリストファークロスの2名盤「南から来た男」と「アナザーページ」でした。当アルバムを中心にクリクロの名曲を前後編に分けて紹介したいと思います。彼の歌声を初めて聴いたのはデビュー盤「南から来た男」(フラミンゴのジャケットが印象的)からシングルカットされた「風立ちぬ」(Ride Like The Wind) ・・、今この題名を聞くと、松田聖子の歌や宮崎駿・映画の題名の方が完全に有名ですが実は「栗黒様」の方が先駆けでございました。吹きすさぶ風の音が冒頭に入るパターンはこの曲と、ピンクフロイド「吹けよ風呼べよ嵐」くらいしか小生は思いつかない・・。その次にリリースされた曲が冒頭に紹介した「セイリング」でした。真っ青なカリフォルニア海岸の波打ち際にいるような抒情的風景を彷彿させ、澄み渡った歌い上げる繊細な声の素晴らしさにRWは一挙虜に・・・!さらにヒットは続き、「もう二度と」(never be the same)や「セイ・ユール・ビー・マイン」などの名曲が世界を駆け巡り彼の名声はあっという間にトップを極めて行ったのです。「南から来た男」の制作参加メンバーは大物ばかり・・、ドンヘンリー(イーグルス)、マイケルマクドナルド(ドゥービーズ)、ジェイグレイドン、JDサウザーなどウエストコーストの重鎮達が名を連ねており、さすが彼らが関わっただけあって捨て曲は一つも無し!心に染みるメロディと個性的なハイトーンヴォイスに彩られた名曲は全てが素晴らしい名盤でした。「ライトイズオン」やマイケルマクドナルドとコラボした名曲「愛はまぼろし」も印象的!今の若い世代でも充分にアピールできる親しみ易さを持っていることがこの人の強みではないかと思います。デビュー盤「南から来た男」とシングル「セイリング」は1980年グラミー賞の5部門を独占、最優秀楽曲賞と最優秀新人賞の同時受賞はグラミー賞史上初の出来事という偉業を成し遂げています。翌年も活躍が続き、日本だけにシングルカットされた「マリー・アン」なんて曲もあったなあ・・。詩情的ロマンチックな澄み切ったハイテナーヴォイス、どんな美男子なのかな?と想像していたのですが、初めてそのルックス(頭が禿げ上がった中年太りのおっさん風)に接した時はまさに目がテン!洋楽史上で最も声とルックスにギャップがある双璧アーティストはわが洋楽の導き人「エルトンジョン」(被り物での肥満化以降)と「クリストファークロス」でした(涙)。皆様にも美しき声のイメージがガラガラと崩壊しないよう、今回のユーチューブは殆どイメージ映像だけにしておりますので悪しからず~!(苦笑)  前編のLAST締め曲は、やはり「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」を選択しました。スティーブゴードン監督・脚本の映画「ミスター・アーサー」の主題歌となった曲でこちらもアカデミー歌曲賞を受賞しています。(次回後編は「アナザーページ」からの名曲を中心に紹介予定)




★(098):ジムクロウチ 「アイガッタネーム」 (1973年) (2014.7.10公開)


c0119160_22515970.jpg今回紹介するジム・クロウチも今の若者には殆ど知られていないシンガーソングライターですが、我々70年代ロックフリークにとっては衝撃的な死を突然迎えた悲劇のヒーローとして今も心に深く残っているアーティストでした。上記掲載曲は1973映画「ラストアメリカンヒーロー」にフィーチャーされた70年代を代表する名曲、「アイガッタネーム」は日本の洋楽ファンの心を一挙に魅了してしまいました。センチメンタルかつメロディアスなボーカルから序盤が始まり、後半からは劇的な展開で一挙にクライマックスを迎えるような歌い方、構成・アレンジは実に秀逸!まさに日本人の琴線を擽った70年代の洋楽史に刻まれる名曲と言えましょう。そして今なお伝説として語り続けらている最大の所以は、1973年(彼が人気絶倒期に達していた時期)に飛行機事故で非業の死を迎えたことです。公演に向うためチャーターしたエアクラフトが木に接触、乗員6人が全員即死するという衝撃的なニュースが入ってきたのです。ジムクロウチは生前に僅か2枚のアルバムと4枚のシングルを出していただけでした。彼のヒット曲を初めて聴いたのは深夜ラジオ放送(アメリカンTOP40)から流れてきた「リロイブラウンは悪い奴」(1973)、何か泥臭いけどお茶目なオトボケ歌だなあと思いましたが、これが彼の初全米1位曲となり米国では彼の人気に一挙に火が点いたのです。「アイガッタネーム」があまりにも美しく洗練された名曲だったので、その路線の垢抜けたシンガーかなと思い込んでいたのですが、初期のヒット曲「ジムに手を出すな」(1972)や「オペレイター」(1972)を聞くと全く正反対のイメージが漂っていたので実に意外な印象を受けました。当時はジェームステイラーやキャロルキング等のシンガーソングライターブームでしたが、彼らとは一線を画すブルースやカントリーを基調とするプレイスタイル、素朴な語り口と大らかなオトボケ・お笑い調を醸し出し独特な雰囲気を持ってたのです。米国のブルーカラー層の市井の人々の日常や感情を冒頓に語るように歌っていた背景には、道路工事の仕事や教師など職を転々としながらジムの苦しい下積み生活にありました。薄暗いクラブで報われな日々を、カントリーやブルースを披露する生活の臭いは名曲「歌にたくして」(1973)や「ラヴァーズクロス」(1973)にも顕されているような気がします。そしてミュージシャンとしてついに苦労が報われて大ブレイクで成功を手にしたのは彼が29歳の時、そしてその翌年3rdアルバムのレコーディングも完了し、「アイガッタネーム」がチャート急上昇て正にこれからという時・・飛行機事故で二度と帰らぬ人となってしまった当時は30歳(栄光は僅か2年足らず)、まさに不運としか言い様がありません・・。1970年ロック発展期に伝説的なロックアーティストが次々と若くして非業の死を遂げました。1969年ブライアン・ジョーンズ、1970年ジミ・ヘンドリックス、1970年 ジャニス・ジョプリン、1971年ジム・モリソンいずれも名前にJがついていることから「Jの悲劇」という都市伝説で今も語り継がれています。1980年にはジョンレノン、ジョンボーナム(zepドラマー)というJが悲劇の死を迎えており、その中間期に悲劇のタスキを受け継いでしまったのがジムクロウチだったのかもしれません。亡くなった直後に全米NO1に輝いた追悼曲「タイムインアボトル」(1973)を聴きながら最後を締めたいと思います。ミュージシャン死後に全米No.1 曲は、ジャニスジョプリン以来の快挙・・。この歌詞は「もしも時間を瓶に詰めておけたら……」という歌詞はまるで自分の運命を予言していたかのようで実に悲しすぎます。あれから40年以上が経ちますが、彼が残した3枚のオリジナルアルバムは今でも輝きを失っておらず今でも多くの人を静かに魅了し続けています。




★(097):ユーライアヒープ 「7月の朝」 (1971年) (2014.6.25公開)


c0119160_21134242.jpg小生がロックに目覚めた1970年代初頭、夢中で聴いた英国プログレ・ハードロックの先駆けバンド「ユーライアヒープ」を紹介したいと思います。今の若者はそんなグループは知らないという人が殆どかと思いますが、レッドツェッペリンやディープパープルに次ぐハードロックのパイオニア的な英国バンドであり、当時衝撃的に登場したクイーンと並ぶ新進気鋭のバンドとして非常に高く評価しておりました。プログレ的・ヘヴィメタル的な要素が強いものの非常に聴きやすいサウンドが特徴であり、米国プログレハードへの伝導者として先鞭的な役割を果たしたの彼らではないかとRWは思っております。彼らの名曲の数々には「〇〇の魔法使い」「悪魔の〇〇」等やたらブラックサバス的なホラー調な題名が多く登場していた印象があるなあ・・。ユーライアヒープの結成は、1970年にミックボックス(G)が、デヴィットバイロン(Vo)とケンヘンズレー(Key,Vo,G)とが出会ったことから始まり、第2作目「ソールズベリー」(1971)あたりからだんだん評価が高まり、3作目「対自核・Look At Yourself」(1971)が世界的にも驚異的なセールスを記録し日本でもブレイク。「対自核鏡」は人間の目がついた独特のシルバージャケットが実に印象的でした。この1972名盤からは、畳みかけるように小気味のいいテクニシャンギターワークと美しいコーラス(オランダのフォーカス風)が印象的な名曲「tears in my eyes」や、ハードなギターワークと「aaa~」が印象的な絶叫コーラスの「ラブマシン」などが大好きでした。しかし彼らの音楽は非常に幅が広く、「What Should Be Done」のような叙情的な世界も随所に表現しておりこれがまた魅力的なのです。今回冒頭に紹介した「7月の朝」はユーライアピープファンのNO1の人気曲、序盤は静かな語り口調、そして彼ら独特のドラマティックかつプログレ的な展開を見せる壮大曲(終盤に延々と続く電子音のリフが実に印象的)は彼らの最高傑作と言っても間違いありません。名盤「対自核」では「7月の朝」と並ぶ小生のお気に入り曲「I Wanna Be Free」を最後に紹介して締めとしたい思います。ユーライアヒープの次回編は翌年の名盤「悪魔と魔法使い」(1972年)から数々の名曲を紹介する予定です。




★(096):ビリ―ジョエル 「イタリアンレストランで」 (1977年) (2014.6.13公開)


c0119160_22285151.jpgエルトンジョン、ベンフォールズ、ダニエルパウター等、過去記事でピアノアーティストを何人か紹介してきましたが、大御所「ビリー・ジョエル」を今まで一度も掲載しておらず大変失礼いたしました~!<(_ _)>。 エルトンジョンに次ぐ世界最高峰のピアノマン、1970年代後半から1990年代前半にかけてポップで親しみやすいメロディラインと、大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で次々にヒットを連発した「ビリー・ジョエル」の名曲の数々を3回に分けてようやくレポートいたしまする。初回はデビューから最大名盤「ストレンジャー」までの中心曲、第2回目は「ニューヨーク52番街」「グラスハウス」からのピックアップ、最終回は「イノセントマン」から1980年代終盤までのヒット曲を3部構成でお届けしましょう。小生がビリージョエルに興味を持ち始めたのは1977年、下宿のFEN ラジオから流れてきた「ムーヴィン・アウト」(小生の最大お気に入り曲)に出遭った時からです。サックスとコラボしたエネルギッシュな曲は実に衝撃的!大都会ニューヨークに生きる市民の生活と心情を逞しい躍動感とともに見事に歌い切っておりました。何故こんなにも印象的だったと言えばやはり中間部で発せられる「La・ca ca ca ca・・!」「ma ma ma ma・・!」の奇妙な連呼とバイクエンジン音とのフィナーレが脳裏に鋭く焼き付いていたんでしょうネ~!この曲は米国で大ヒットしたのですが、日本ではB面扱いで冷遇されていたことを後程知り大いに意外でした。日本ではバラード系曲の受けがいいですが、米国ではノリのいいロックンロール系がヒットしていく傾向があったようです。その後日本で大ブレイクしたのは、ご存知今回の主題盤「ストレンジャー」からの1stシングルカット「素顔のままで」(1977)でした。しっとりと歌われたビリーバラードの代表曲は、前妻エリザベスに捧げられたラヴソングでグラミー賞の最優秀曲賞に輝いています。直訳すれば「そのままの君でいてくれ」ですが、邦題「素顔のままで」は実に的確でセンスが感じられる命名だな・・とあらためて思います。そしてアルバム題名にもなっている「ストレンジャー」(1977)、哀愁漂う印象的なセンチメンタルメロディの口笛が静かに始まり、突然衝撃的なイントロが入りアップテンポな曲が展開されていきます。都会の孤独をかっこよく歌った一度で忘れられなくなるような彼の最大代表曲の一つです。懐かしきジェームスディーン出演のユーチューブ「若死にするのは善人だけ」(only the good die young)(1977)では特有のしゃがれ声が激しく高揚する軽快なロックンロールバージョン!全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し、アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなったビリージョエルですが、音楽人生のスタートは決して順風満帆という訳ではなかったようです。初期の代表曲「ピアノマン」(1973)は、彼がロスのピアノバーでピアノの弾き語りをしている時の失意の経験を元にして作られた曲だったとのこと。「ニューヨークの想い・NY物語」(1976)も夜景が似合うニューヨークの哀愁曲ではなく、ロスのピアノバー時代のことを歌っているらしいですが、よほど辛い思い出があるらしく彼はあまりそれを語ろうとしません。再び名盤「ストレンジャー」からの佳曲へと記事を戻しましょう・・。今回、メイン掲載した「イタリアンレストランで」 (1977)はシングルカットこそされませんでしたが小生の最大お気に入り曲(初期エルトンジョン的雰囲気も・・)です。名盤「ストレンジャー」の中で最もスケールが大きい優雅な曲としてビリーファンからの人気が高く、また本人自身も好んでステージ゙で取りあげています。冒頭部分は静かにシットリ歌い上げ、突然アップテンポの明るい曲に転調、ビートルズを意識したような壮大に展開していく連続構成曲はストリングスでのクライマックスを迎え、最後は再び美しいハーモニー(ピアノソロ・ボーカル&サックス)を奏でながら余韻を残しながら静かに閉じられていきます。第1回記事のフィナーレ曲は、日本人の琴線に触れる隠れた名曲「シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン」(1977)で締めることにいたしましょう。これも「素顔のままで」と同様に 彼のキャリアを支えた前夫人エリザベスへの愛の賛歌でした。まだまだビリージョエルのヒット曲は多くあり、次はどんな内容で紹介していきましょうか・・。第2回目は数年後になるかと思いますがお楽しみに~!

  # by rollingwest | 2002-03-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(120)

RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第14巻)

【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから

c0119160_6331745.jpg


★(095):コモドアーズ 「アイムイージー」 (1977年) (2014.6.1公開)



c0119160_20275631.jpg「日曜朝の気分はイージー・・、心地よい気楽さの喜びを感じる・・」、誰にも共通した心境を噛み締めるように歌ったコモドアーズの「アイムイージー」(1977)は小生がジュークボックス(今や死語)でよく聴いていた名曲でした。リラックス気分を再現するかのように序盤は美しいピアノイントロから始まり、ゆったりとしたミディアム・テンポで曲は流れ行きます。やがて「I Wanna Be High~!」の絶唱から曲調は一気に盛り上がり、サックスとストリングス演奏・ワイルドなギターソロ、そしてピアノとコーラスが見事融合して叙情的な展開を見せていきます。全米ヒット4位、グラミー賞R&B最優秀歌曲賞にもノミネートされた素晴らしい名曲を聴き、彼らに抱いていた小生のイメージは全く変わってしまいました。それまでコモドアーズと言えば、「マシンガン」(1974)など電信音インストルメンタル曲のシンセサイザー系ダンスミュージックバンド、またはアップテンポな「ブリックハウス」(1977)でのファンキー系ディスコバンドとして活躍していました。しかし上記曲に続き「永遠の人に捧げる歌」(Three Time Lady)(1978)も大ヒットを記録すると、ライオネルリッチーのバラードメーカー才能が大きく開花、「セイルオン」(1979)や「スティル」(1979)など大人のソフトナンバーを連続ヒットさせると、完全にライオネル主導のバラード系バンド(他メンバーは面白くなかったのかも・・)へと転身してしまいました。80年代初頭は久しぶりにノリのいいナンバー「レイディ」(1981)をリリースして往年のコモドアーズが復活かと思ったら、ライオネルリッチーは翌年にグループを脱退してしまいました。彼はソロ活動に専念するとさらに大物ぶりを発揮し、1981年にダイアナロスとのデュエット「エンドレスラブ」の全米1位ヒット、ロス五輪閉会式(1984)での歌唱、「USA for AFRICA」チャリティーコンサートでの「We are the World」(1984)、「セイユー・セイミー」のアカデミー賞映画主題歌賞(1986)と世界的な名声を完全に確立していきました。一方、彼が抜けた後のコモドアーズは低迷状態に陥りましたが、1985年には「ナイトシフト」の大ヒットでグラミー賞R&B部門を受賞して再起に成功したのです。この曲は1984年に亡くなった2人の偉大なる黒人シンガー「マーヴィンゲイ」と「ジャッキーウィルソン」を深く追悼した歌でした。「俺たちはライオネル主導のバラード系バンドではない。R&Bやファンクをベースとした黒人グループなんだ・・」という意地の気持ちが最後のひと花を咲かせたのかもしれません。



⇒次回は、ビリ―ジョエル最大名盤「ストレンジャー」の隠れた名曲「イタリアンレストランで」(1977) をお送りします。♪\(^◇^)/♪




★(094):スティックス 「永遠への航海」(Come Sail Away) (1977年) (2014.5.20公開)



c0119160_2247404.jpg1970年代から80年代前半にかけて洗練されたヒット曲を沢山放ち続けて高い人気を誇っていた「スティックス」・・、数多くの名曲の中で小生が一番のお気に入りは上記の「永遠への航海」(Come Sail Away)(1977全米8位)です。ピアノイントロとデニス・デヤングの甘い声から始まり、静かなシンセサイザーに奏でられる美しい旋律が続く序盤、中盤ではいきなり転調して一挙爆発的なハード演奏に突入し頂点へ圧巻の盛り上がりを見せる展開、大海原へ航海へ漕ぎだす勇敢なる船出のイメージ!以前小生は「アメリカン・プログレハード四天王とは【ボストン、カンサス、TOTO、フォリナー】、人によってはジャーニーやスティックスを入れるケースも・・」と記載しましたが、この記事を書きながら認識をあらためるべきと大いに反省しています。実はスティックスこそ、彼らよりずっと早くから米国ロックの中にプログレ的なテイストを取り入れようとしていた先駆者だったのです。70年代初頭から活動してきたスティックスは、甘いヴォーカルとPOPな旋律を奏でるデニス・デ・ヤング(key,vo)、ハード路線でスケールの大きなロックを求める貴公子トミー・ショウ(g,vo)、そして野性的なジェームス・ヤング(g,vo)の3人の個性がぶつかり合い調和しながら高質の曲を多く世に送り出してきました。今回は初・中期のブリティッシュな雰囲気を醸し出していた1970年初頭~1977年のスティックスを前編で紹介します。1972年に1st「Styx」でデビュー、当時は冒頭から長い組曲を収録し中世ヨーロッパを彷彿する神秘的な曲が多かったですが、2nd以降は名曲「憧れのレイディ」(1974・全米6位)などPOPなセンスでや音の幅を広げ聴きやすいプログレバンドの地位を徐々に確立していきました。1975年に第5作「分岐点」発表直後、トミー・ショウ(vo,g)が加入し以降は3頭体制(3人のリード・ヴォーカリストと2人のリード・ギタリストが存在)でさらに音楽の厚みを広げて質を高めていきました。76年リリースしたアルバム「クリスタル・ボール」では、早くもトミー・ショウがコンポーザー&ヴォーカリストとしての手腕を大いに発揮しています。そしてスティックスの人気がついに世界的に爆発する時が到来します!1977年「永遠への航海」(上記掲載)・「怒れ!若者」(Fooling Yourself)「ミスアメリカ」などの名曲を満載した「大いなる幻影」(The Grand Illusion )が全米で300万枚セールスを突破し初のマルチプラチナ盤に輝き一挙に超メジャーバンドとなったのです。その後遅れて登場してきたカンサス、ボストン、ジャーニーらも大ヒットを連発するようになりアメリカン・プログレハード軍団は一挙に世界を席巻していきましたが、トミーは「スティックスは僕が加入する前から今のサウンドは基本的に同じだよ。僕たちを後進のカンサスやボストンと比較するなんておかしいよ」と高いプライドで見せつつ余裕で語っています。最後の締め曲は「スイートマダムブルー」(1975)を紹介して前編記事の筆を置きます。1975年は壮大なるスティックスサウンドのまさに分岐点、彼らの進化した音楽性神髄の一端を思う存分に楽しんで下さい。





★(093):T-REX 「20センチュリーボーイ」 (1973年) (2014.5.8公開)



c0119160_2111134.jpg中学生時代の小生が洋楽に嵌って2~3年目(1971~1972年)に「グラムロック」という中性的なビジュアルバンド達(妖しげなでギラギラのメークやファッション)が世界を席巻し大旋風の頂点を極めていました。そのネーミング語源は「Glamorous」(女性的な魅惑、幻惑的な魅力)から来ており、双璧のスーパースターはデビッドボウイと「T-REX」、その他にもモット・ザ・フープル、アリス・クーパー、ロキシーミュージック、スレイドなどが百花繚乱の如く咲き乱れておりました。このジャンルは音楽性からの仕分けではなく単なる外見・ファッションからの分類です。今回は「T-REX」が絶頂期を誇っていた頃の最大名盤「スライダー」(1972)からの名曲を中心に、ロック史を太く短く駆け抜けたマークボランの生涯を紹介したいと思います。1947年、ロンドンに生まれたマーク・ボランは15歳でバンド結成し音楽活動を始めたらしい。何と早熟!彼は当時パリに住んでいた魔術師に弟子入りし錬金術を学んでいたとのこと。何と驚愕!そして1968年21歳でT-REXの前身「ティラノザウルス・レックス」の名前でデビューし、1969年にミッキーフィンが参加したあたりからT-REX独特のエレクトリックブギーがスタートすることに・・。そして1970年バンド名を「T-REX」と短縮改名し、奇抜な中性的な化粧やサテン衣裳を施して「電気の武者」がアルバムリリースされるや否や彼らの人気はついに爆発的なブレイクとなり、「ジープスター」(1971)や「ゲットイットオン」が大ヒットして黄金期を迎えることになります。マークボランのビジュアルPRは他のバンドやファンに一挙に大影響を与えてグラムロック・スタイルは一挙に確立し世界をあっという間に席巻してしまったのです。小生のT-REX初体験曲はやはり「テレグラムサム」(1972)ですね~!この妖しいリズムとマークの声とファッションに一挙魅了されてしまいました。グラムロックと聞くと、音の方もギラギラした内容を想像するかもしれませんが、T-REXのサウンドは「メタルグルー」(1972)に見られるように実にシンプル。あまり上手とは言えないギターリフとコード進行、演奏面だけで言うと実に素人くさい感じでした。しかしマークの不思議な詩の世界とボーカル、奇妙なストリングスとコーラスアレンジは聴く者を独特のマークの世界に誘い込みます。「チルドレン・オブ・レボリューション」(1972)や「メインマン」(1972)などはその典型曲だったかもしれません。テクニックよりも感性重視したギターリフのフィーリング曲は、時代を超えた天才マーク・ボランの真髄として魔法音楽のように響き渡り「ボラン・ブギー」というマークトリップの世界にロックファンを惹きこんで行きました。1972年は初来日も果たして、当時のRWはミュージックライフ誌を食い入るように読み漁っていたことが懐かしき思い出・・!しかしミッキー・フィンが脱退した1975年頃から、世の中のグラムロック熱は潮を引くように醒めていき彼らの人気も一挙に凋落状態となりました。一挙に頂点を極め過ぎるとその落差はあまりにも残酷でしたが、そんな彼にも1977年に音楽居場所を与えてくれる時代が再到来しました。それは商業主義のロックを根底から覆そうという大きな地殻変動「パンク・ロック」の登場です。このジャンルはグラムロックと同じようにファッションとともに英国全土に人気が広がり、彼らも新生T-REXを結成して再スタートを窺い順調に復活への兆しが見えてきたのです。しかし同年9月衝撃的なニュースがロック界を駆け巡りました。マークボランが交通事故で30歳誕生日を迎える寸前でこの世を去ってしまったのです。彼はかつて生前インタビューで「僕は30歳になる前に体がバラバラになって死ぬだろう」と予言していました。彼は15歳の頃から魔法使いの下で修行を積んでおり、自らの若い命と引き換えにボランサウンドを永遠に残してほしいと願って魔法使いとの契約を交わしたのかもしれません。その証拠に70年初頭の短期間の閃光だったにもかかわらず「T-REX」の名前は今の若者にも絶大な人気を誇っています。上記掲載の「20センチュリーボーイ」は浦沢直樹の大ベストセラー・コミックを映画化(2008年)した「20世紀少年」の主題歌として大人気となり、皆様も久しぶりに懐かしい気持ちになったことでしょう。そして、最後の締め曲は 全英3週連続第1位に輝き彼らの出世曲「ゲットイットオン」(1971)、マークボランとエルトンジョンとが共演している超お宝物の映像なのでございます。




★(092):マンフレッド・マンズ・アースバンド 「光に目も眩み」 (1976年) (2014.4.26公開)


c0119160_913164.jpg今回は、マンフレッド・マン(1960年代前半から活躍するキーボーディスト)が1976年にグループを率いて大ヒットさせた「光で目もくらみ」(Blinded By The Light)を紹介したいと思います。この曲は小生が大学入学で上京したての頃(もう40年近くが経つなあ・・)、毎日のように四畳半下宿のFENラジオから流れていた全米1位ヒットナンバーで完全にRWの体に染みついている懐かしのロックナンバー。シンセサイザー音の序曲から骨太ボーカル、壮大なるギター演奏、幻想的かつ見事なアレンジと劇的な曲展開で大いに魅了させれました。実はオリジナルはブルース・スプリングスティーンの1st盤に収められていましたが、やはり「マンフレッドマンズ・アースバンド」のナンバーでこそがロック史に輝く名曲であり、彼らにとっても最大の代表曲に間違いありません。当時この英国バンドは「一発屋」なのかな・・と思っていましたが、マンフレッドマンを調べていくうちに、様々な形態のバンドを結成して意欲的に新たな音楽境地を模索してきたブリティッシュロックの至宝と評価されていることを後程知りました。そういえば「スピリッツ・インザナイト」も渋く素晴らしい演奏を見せながら壮大な展開曲で本当に格好よかった!「マンフレッドマンズ・アースバンド」は、各活動時期によって全く異なる音楽性を発揮している珍しいグループで、初期はR&Bが主体、その後シングル中心のPOPバンドに変身、1960年代後半はアイドル的な人気を誇った「シャララ」や「DO WAH DIDDY DIDDY」、やボブ・ディラン曲をカバーしてヒットした「マイティ・クイーン」、などで有名になりPOPS路線の寵児として大人気を博していたのです。そしてその後の変貌ぶりはあまりにも凄すぎる・・、ブラスを加えたジャズを志向したり、さらに1970年前半からは何とプログレッシブロック路線へと変身し4作目の「ソーラーファイアー」(1973)(冒頭曲は「FATHER OF DAY,FATHER OF NIGHT」は、太陽系をテーマにしたコンセプト盤としてプログレ世界の名曲として語られるべき作品と評価されているのです。・・とはいえ濃厚な本格プログレではなく、泣きのギターやメロトロンが叙情的なメロディを奏でたりとお洒落な大人風POP路線も残した音作りを心がけている感じがします。活動前期で高い評価を得ている名盤は「ナイチンゲイルズ&ボンバーズ」(1975)、このアルバムからは小生お気に入りの名曲「スピリッツ・インザナイト」、ドラマティックで雄大な「ヴィジョナリー・マウンテン」等が収められています。そして翌年には、上記掲載曲「光に目も眩み」でスタートするロック史の名盤「静かなる叫び」(1976)のリリースが続きます。これ以降は、キーボード主体のキャッチーかつPOPなサウンドを主体として、ソフト&メロウバラードからハードロックまで何でもこなす幅広さを披露していきました。「イルカの声」(1976)を聴くともうだいぶAOR路線に入り込んできた印象も受けますな~。マンフレッドマンズ・アースバンドはB・スプリングスティーンやボブディラン、ランディニューマン等を好んでカヴァーしていますが、全然原曲と違った趣にしてしまうという稀有な特技を持っています。楽曲選択とアレンジの素晴らしさを駆使すれば歴史的な名盤をも残せるというお手本みたいなバンドでした。今回は1976年までを一区切りとして、後編は1978年から1980年中期までの名曲の数々をいつか紹介する予定です。最後の曲はRWのお気に入りの一つ「クエスチョンズ」(1976)で締めたいと思います。




★(091):アートガーファンクル 「永遠の想い」 (1975年) (2014.4.14公開)


c0119160_6415931.jpg中学生の頃小生を洋楽の道に導いてくれた「サイモン&ガーファンクル」(第2巻(016)参照)・・、「明日に架ける橋」がグラミー賞に輝いた1970年に残念ながら解散してしまいました。ポールサイモンはソロ転身後も「母と子の絆」、「僕のコダクローム」等のヒットを放ち気を吐いていましたが、S&G時代に一つも作曲しなかったアート・ガーファンクルの方は解散後は沈黙していた印象があります。その頃、彼は自分の澄んだ歌声に合う楽曲を見つけていかに自分流に歌うかという方向性でデビュー盤を作ろう・・と奮闘していたのです。その結果満を持して、自らの声を比喩したような題名をつけて1973年発表されたソロデビュー盤が「天使の歌声」(ANGEL CLAIR)でした。その冒頭曲は「青春の旅路」(Traveling Boy)を聴いて、期待に違わず美しい高音とちょっと鼻にかかる特徴的なガーファンクルボーカルが健在!とまずはひと安心、そしてアルバート・ハモンド作品で大いにヒットした「ひとりぼっちのメリー」・・、ビブラートが効果的に響くはかなさも伝わってくる声にまたも感動!そしてデビュー盤で小生が最大のお気に入り曲は、ジミーウェッブ作詞・作曲の「友に捧げる賛歌」(All I Know)、親友を思う歌詞と美しいメロディーが透明感溢れる声で感動的に表現されており、まるで「明日に架ける橋」の如し・・!続く1975年発表の2nd「愛への旅立ち」(Break Away)も超名盤で本当にお薦め!このアルバムは数々の名曲がプレゼントされておりレコード針が摩れる程聴き惚れ幸福感に酔ったものだなあ~・・。スティーヴン・ビショップ提供の「めぐり逢い」(Looking For The Right One)も余韻ある名曲・・、オリジナルピアノ演奏者はかの有名な大物プロデューサーデヴィッド・フォスターらしい。上記に掲載曲した「永遠の想い」は2nd盤に収められており、その他にも「瞳は君ゆえに」、そして小生が下溜めて愛してきた曲「L.A.より99マイル」等の多くのヒット曲がキラ星の如く。この名盤は曲の選択もさることながらアレンジも素晴らしくバックミューシャンにもCSN&Yのデヴィッド・クロスビーやグラハム・ナッシュなどの豪華なゲストも参加しておりました。「夢心地」を味わえるこの名盤のヒット曲には、ポールサイモンとの共演曲「マイリトルタウン」も入っています。ついにS&G復活か~!と大喜びしたものです。実際のコンビ復活は1981年セントラルパークコンサートでしたが、その後2人で何度か来日してくれて1993年カミサンと一緒に東京ドームで生のデュエットを聴けたこと(もう20年以上か・・)がいい思い出です。アートガーファンクルのソロ名盤は「シザースカット」(1981)等まだまだ沢山ありますので、いつか後編として紹介したいと思います。

  # by rollingwest | 2002-02-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(108)