RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」(第8巻)

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★(066):BS&T 「スピニングホイール」 (1969年)  (2013.6.19公開)


c0119160_21212526.jpg小生が洋楽ロックを本格的に聴き始めたのは1970年(ビートルズ解散直後)、ハードロック、プログレなどロックミュージックシーンがまさに新たな発展期を迎えていた時代でした。それらと競うように「ブラスロック」という新ジャンルが世界を席巻、初期シカゴの「長い夜」「流血の日」「クエスチョンズ67-68」(「第1巻-011」で掲載)、チェイスの「黒い炎」
等のヒット曲が毎日のようにラジオから流れており、小生はブラスセクションの新鮮なサウンドに夢中になっていたものです。その先輩格バンドは「ブラッド・スウェット&ティアーズ」(以下呼称は「BS&T」 )、 上記に紹介した「スピニングホイールス」が最も有名な曲ですが、 力強い疾走感のブラスサウンドで迫ってくる 「マックエビル」、ちょっとお茶目な「私が死んだ時」、重厚なロック基調で貫録溢れる「ゴーンダウンギャンブリン」など実に多彩な作品を生み出しています。彼らはブラスサウンドを基調としながらも、クラッシック、ジャズ、カントリー、ブルースの要素を取り入れたアンサンブル形式で一層深く厚みある曲に仕上げており、大人のロックグループだなア・・という印象がありました。BS&Tはシカゴとよく比較されますが、ロックが基調のシカゴに対し、BS&Tはジャズがベースにあるように思えます。グループの結成は1967年、アルクーパー、スティーヴカッツ等の元ブルース・プロジェクトを中心としてメンバーで、オルガン、ベース、ドラムスを主軸として華麗なホーン・アンサンブルで登場しました。デビューアルバム「子供は人類の父である」の代表曲「I Love You More Than You'll Ever Know」はアルクーパーが創り上げるサイケな独自サウンドで小生は結構お気に入りでしたネ~。またスティーヴカッツが静かに歌う「サムタイムス・イン・ウインター」はフルート演奏とともに情景が溢れた曲で渋いんですよ、これがまた・・。しかしこの1St盤は大ヒットには至らず、リーダーのアルクーパーは脱退してしまいます。後任に迎えた新ボーカリストはデヴィッド・クレイトン・トーマスでした。アルのやや頼り無かったボーカルに比べ、DCトーマスは声量に溢れ迫力ある力強さが魅力的であり、新体制はコマーシャルなサウンドも多く取り入れPR力は抜群!1969年にリリースされた2ndアルバム「血と汗と涙」は高く評価され、同年グラミー賞でアルバム部門を受賞し世界的にブレイクしたのです。小生が夢中になった「ブラスロック」というジャンルがロック史で輝いていたのは1970年前後の僅か3年強だけでした。シカゴはこのジャンルを捨てAOR路線に完全転換(裏切り者~!)、チェイスはメンバーの飛行機事故でグループ消滅・・。そんな中で今も原点を忘れずに還暦を過ぎてもロックとジャズとの融合を真摯に実践している「BS&T」、ハイレベルな演奏力と音楽性の幅広さはまさに玄人好みのお宝バンド(フュージョンの先駆者的存在)ではありませんか・・!最後の曲は、老境を迎えても頑固一徹にブラスロックを演奏し続けるな渋いオジサンたちがダイナミックに歌い上げ、燻銀のように演奏している「You've made me so very happy」で締めることにいたしましょう。




★(065):アメリカ 「金色の髪の少女」 (1975年)  (2013.6.7公開)


c0119160_22192147.jpg清涼感溢れるコーラスとアコースティックギターサウンドで、わが青春時代を大いに魅了してくれた「アメリカ」という名の米国バンド。その爽やかなハーモニーと洗練された演奏(哀愁も十分!)は、中年オヤジになってもいつまでも心に残り続けております。中学三年の時、高校受験勉強で深夜ラジオから流れてきたのが彼らのデビュー曲「名前のない馬」
でした。淡々と歌い上げるフォークロックテイストの曲は期せずしていきなり全米NO1となり一躍全世界にブレイクし登場したのです。へ~、こんな地味な印象の曲が大ヒットとなるのか・・と驚いたものですが、なぜか心に刻まれ感性に訴えるものがありました。デビューアルバムもミリオンセラーを記録し、その年のグラミー賞では最優秀新人賞の栄光に輝いたのです。当時はハードロックやプログレの全盛期でしたが、それらとは一線を画す「シンプルで味わいある生の音」がとても新鮮でしたネ~!もしかして一発屋で終わるのかな・・と思いきや、その後も「ベンチュラハイウェイ」「アイニードユー」「魔法のロボット」(Tin Man) 、「ひな菊のジェーン」(Daisy Jane )等の優れた楽曲を次々とヒットチャートに送り込み、音楽史に確固たる地位を築き上げたのです。ジェリー・ベックリー、デューイ・バネル、ダン・ピークの3人によってロンドンで結成されたバンド、なぜ故に「アメリカ」という名前なのかと調べてみたら、3人とも父親はロンドン駐留の米国軍人でアメリカンスクールの仲間だったことが理由のようです。離れた故郷であるが故に、この様にストレートなネーミングを付けて祖国への愛着を表したのでしょう。コーラスを生かした素朴なサウンドは、当時のフォークロック大御所バンド「CSN&Y」と比較されて彼らの弟分とか亜流などと呼ばれていました。彼らを「ウエストコーストサウンド」の流れの中に位置づけて米国フォークロックと捉える人も多いとは思いますが、底流には「ブリティッシュ・トラッド」的な要素や少し湿った味わいがあるように感じます。また美しいメロディにはビートルズの香りが漂うのは、英国で育った文化や伝統が彼らの音楽の中に息づいているからでしょう。1980年頃は、AOR路線も取り入れながら「オールマイライフ」、「風のマジック」、「ライトビフォーユアアイズ」とヒットを放ち1980年代前半まで息長く活動を続けました。今回、紹介した「金色の髪の少女」(Sister Golden Hair)は、デビュー曲に次ぎ全米NO1を記録した彼らの代表曲であり、このナンバーを思い出深く感じる方も多いことでしょう。詩の内容は「女性になかなか告白できない青年の青臭い気持」を歌にしたものですが、曲に「青臭さ」は一切感じられません。アコギとスライド・ギターで静かに始まり、哀愁を漂わせながらも、リズムに乗って疾走していくという曲調。途中で一度トーンダウンした後、エンディングに向けてコーラスが盛り上がっていく構成も実によくできていますね~!メリハリのある演奏を3分弱の短い時間の中でコンパクトに決めてみせる「アメリカ」のブリティッシュ・フォークの真骨頂がここにあります。




★(064):フォリナー 「ホットブラッデッド」 (1978年)  (2013.5.25公開)



c0119160_5523265.jpg1970年代後半~1980年代前半にかけて「プログレハード」と呼ばれる米国ロックバント達が人気を博し世界のミュージックシーンを席巻していました。1970年代初頭のプログレシッブロックが英国バンドを中心に独自の感性・難解なコンセプトアルバム(独善的拘り・個性的)を競い合って一時代を極めたのに対し、1970年代後半以降は米国バンドがプログレ様式にハードロック的要素や、分かり易いメロディアスなPOPサウンド(人工的・商業的な傾向)を加えて数々のヒット曲が生み出されたのです。代表的なバンドは四天王とも称されるフォリナー、TOTO、ボストン、カンサス、その他スティックス、ジャーニー、エイジャ等が大活躍でした。フォリナーの登場は1977年、まさに「衝撃のファーストタイム」!元キングクリムゾンのイアンマクドナルドが中心となり結成され、英国人と米国人が混在したことからフォリナー(外国人)と命名され、当時はスーパーグループ誕生で大いに話題となったものです。歯切れの良いギターのミックジョーンズ、高く伸びのあるボーカルのルーグラハムが才能を発揮していました。その後、「ダブルヴィジョン」(1978年・全米3位)、「ヘッドゲームス」(1979年・全米5位)、そして「フォリナー4」(1981年)は何と全米10週連続1位の栄光に輝いています。(小生はは荒削りのワイルドさや憂いの雰囲気も残すデビュー盤「栄光の旅立ち」が一番好きですが・・)。そんな風潮に対して、「本来ロックとは反抗心や泥臭い気骨・頑固なポリシーの中から生まれてくるべきものであり、大衆受けばかり狙う耳触りだけがいいミーハー的な音楽はロックではない!」と、売上第一主義の姿勢は「産業ロック」と揶揄され、キツ~イ批判(日本初の呼称者は渋谷陽一)が浴びせらたのも事実。しかし、当時の小生はそんな深い思慮やヒネクレ心も持たず夢中になって毎日ラジオで彼らの曲に耳を傾けていたものです。巨大産業ロックの代表バンドの証として、大ヒット曲が目白押しで掲載選択には迷うばかり・・。全体的にアップテンポでハードな曲が多いですが、「待ちくたびれて」の如く切々と哀愁を感じる名曲も・・。今回の「ホットブラッデッド」や「冷たいお前」「蒼い朝」等は彼らの定番的な曲で実にいいですね~!フォリナーはやはり完成度が高くて曲作りが巧い!捨て作品は殆どない素晴らしさをあらためて感じます。いつか第2回目記事も予定していますが、とりあえず今回は「愛とは何かを知りたい」のスローバラードな雰囲気で第1回目記事を締めくくっておきましょう。




★(063):エルビスプレスリー 「この胸のときめきを」 (1970年)  (2013.5.11公開)


c0119160_6221658.jpg「King of Pops」マイケルジャクソンに続き、今回は「King of Rock'n'Roll 」と呼ばれ、米国が生んだ戦後最大のスター「エルビスプレスリー」の記事をレポートします。ギネスブックではCDの世界売上げ歴代ベスト3は、1位:ビートルズ(約10億枚)・2位:マイケルジャクソン(約8億枚)・3位エルビスプレスリー(約6億枚)とのことですが、アナログレコード(詳細数字は不明)を含めればプレスリーの数字は10億枚近いのではないかと想像されます。ちなみにプレスリーの一人娘リサ・マリーはかつてのマイケルジャクソン夫人なので、義理の親子で売り上げた合計数字は一体どの位になるのだろう・・。エルビスプレスリーは、ビートルズやローリングストーンズにも大きな影響を与えたロック史に輝く白人アーティスト、まさに20世紀を代表する米国文化の象徴でありました。1935年にミシシッピー州で生まれたエルビスは1954年19歳でレコードデビュー、1956年に大手RCAと契約した、「ハートブレイクホテル」が全米1位となり、その後は「ハウンドドッグ」・「冷たくしないで」・「ブルースェードシューズ」・「監獄ロック」など立て続けにヒットを飛ばし、一気に全米1の人気歌手に駆け上がっていったのです。当時R&Bを歌う白人歌手は既に珍しくないものの、その殆どはソフトな大人の雰囲気で歌い上げる白人歌手(ペリーコモ、フランクシナトラ、パットブーン等)が主流でした。それに対してエルビスはリーゼントヘアの姿で腰を激しく振ったり、徹底的に黒人になり切った歌い方で一挙に若者の心を惹き付けたのです。大人達からは「黒人の下品な文化は止めろ!R&Bに取り憑かれている」と猛烈な反感を買い沢山の批判を受けました。革命的なエンターテイナーの登場(まさに反逆のロック音楽の体現)はまさに米国社会の全体をも揺るがす事件として大きな衝撃を与えたことでしょう。しかしその後、「エドサリバンショー」(当時の大人気TV番組)に出演したことで彼の全米制覇はついに完成、この瞬間にロックンロールが白人社会の一つの文化として定着したと云われています。さらにハリウッド・デビューも飾り、映画、「ラブミーテンダー」などバラードの面でも幅を広げていきます。当時の米国は徴兵制、23歳を迎えたエルビス(1958年)にも2年間の徴兵通知が届きました。しかし兵役を無事に勤め上げ、復帰後の映画、「GIブルース」(自身の兵役時代に重ね合わせたストーリー)は米国兵らの憂鬱な心を捉えただけでなく全米を魅了する記録破りの大ヒット、その人気はついに国民的なレベルにまで達したのです。1960年代後半のエルビスは映画撮影に嫌気がさして意気停滞したものの、1960年代末期には再びLIVE活動を開始し1969年ラスベガスコンサートでは20万人の観客を酔わせて大復活を遂げたのです。(この頃のエルビスはロカビリーのイメージを完全脱却し、まさに大人のエンターテイナーの風格!) 小生がエルビスを知ったのはビートルズが解散した1970年、当時日本でも大ヒットしたドキュメントLIVE映画「エルビス・オンステージ」を観てからです。その映画の象徴曲こそが上記に紹介した「この胸のときめきを」・・、そしてアップテンポな、「バーニングラブ」です。おデブになったしまったエルビスでしたが、襟の立った真っ白なディナーショースーツ(大きいボタンが一杯付いていた)で歌う彼の姿は、当時の我々にとっては憧れの井手達やファッションだったような気がします。リーゼントヘアやモミアゲ姿、ベルボトムのズボンをはいていた奴が周りに沢山いたなあ・・(懐) 1977年に僅か42歳の若さでエルビスは天国に召されてしまいましたが、彼が残した足跡や名曲の数々は永遠に語り継がれていくことは間違いありません。最後の曲は、エルビスの風格あるスタンダードナンバー、「好きになられずにいられない」で締めくくることとします。
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★(062):マイケルジャクソン 「ベン」  (1972年)  (2013.4.27公開)


c0119160_15555658.jpg「King of Pops」と称せられる「マイケルジャクソン」・・・、今さら詳しい解説は不要とも思いますが、アルバム・シングル・CDの総売上枚数は7億5千万枚で「人類史上最も稼いだエンターテイナー」とも呼ばれたスーパースターでした。2009年、最後の公演と予言した「THIS IS IT」のツアースタートに入る直前(6月25日)に50歳の若さで突然の死を迎え、全世界に強い衝撃と悲しみを与えたのは皆様ご存知の通り・・。しかし、小生にとってのマイケルはやはり少年時代(14才)に切々と歌い上げていた名曲「ベン」(鼠のベンと少年ダニーの交流を描いた映画主題歌)の印象が今も強く残っていますネ~!4人の兄達と結成した「ジャクソン5」のボーカルとしてブレイク、1969年10月発表のメジャーデビュー曲「帰ってほしいの」(I want you back)が全米シングルヒットNO1にいきなり輝きました。その後も天才児ぶりを発揮し、「ABC」「さよならは言わないで」など立て続けに全米1位曲を放ち、この頃からすでにスーパースターとしての地位へ駆け上がっていたのです。 その後、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「WIZ」(オズの魔法使いをアレンジした黒人少年・自分探しの物語)の映画主題歌でも新境地を切り開き、青年に成長すると歌・ダンスはさらに磨きが掛っていき、あのムーンウォークの超絶美技へと繋がっていくのでした。「ジャクソンズ」時代のディスコ曲「今夜はブギー・ナイト」では、ハタチになった青年マイケルが最高にカッコいいネ~!その後はソロデビュー(1979)、80年代の大活躍は言うまでもありません。名盤「オフ・ザ・ウォール」(Rock With You)が大好きでした!)のリリース時には完全脱皮で大ブレイク、歴史的な大作「スリラー」は単独で1億500万枚販売の世界ギネスを記録しグラミー賞史上最多8部門を獲得したのですからまさに驚異的(絶頂期時代の名曲の数々はいつか気が向いた時に掲載予定)。その後、少年の性的虐待や数々の奇行でも話題となりましたが、50歳の若さで亡くなってしまったことは誠に残念!(彼の伝説化には一挙に拍車がかかりましたが・・)。昨年末に「ジャクソンズ」が再結成され来日(グループを一緒に支えた兄のジャーメインも復帰)し、往年のファン彼の在りし日の姿に思いを馳せたことでしょう。少年時代のマイケルと、死を迎える前の大人のマイケルが声と映像でコラボした「アイルビーゼア」のPVを観ればその感慨は一層に深まるかも・・。

  # by rollingwest | 2001-08-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(74)

RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第7巻)

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★(061):オリビアニュートンジョン「そよ風の誘惑」 (1975年)  (2013.4.11公開)


c0119160_20383431.jpg清楚なイメージ・美しい容姿と天使の様な透き通る声で、我が青春時代(全くもてなかった18才前後)の心を癒してくれた歌姫がオリビア・ニュートンジョン様でありました。大学1年生として東京で初の独り暮らしを始めた1976年の春、下宿生活のラジオから毎日流れていたオリビアの美曲は「そよ風の誘惑」。クリスタルボイスで奏でられる爽やかで美しいメロディ、全米No1にも輝いたこの曲こそが1970年代の清純路線のオリビアの象徴だったように思えます。(*^m^*)ぷっ aho!誰?吹き出してる奴は・・。1976年前後の彼女は「プリーズMRプリーズ」「サム」等の美しいバラードや、「愛しい貴方」等の軽快で素朴かつPOPなカントリーソングで世界を魅了していました。オリビア・ニュートンジョンは、1948年英国ケンブリッジ生れ(今年もう65歳か・・)、父親は大学教授、祖父(母方)は何とノーベル賞物理学者(マックス・ボーン)という超エリート家系に育ったのです。14歳の時から音楽活動を始め、1971年の「イフナットフォーユー」(ボブディラン曲カバー)で歌手デビュー、この曲は米国5位・英国7位となる順調な発進、その後も数々のヒット曲を放ちました。そして1974年には「愛の告白」(I Honestly Love You)がついに全米1位を獲得、グラミー賞2部門の栄誉へと輝いたのです。1975~76年前後のオリビアは、「ひとりぼっちの囁き」(Come On Over)等の心のこもる歌を切々と歌い上げていました。この頃の彼女が最高だったナア・・!(*^m^*)ぷっhaihai 。しかしジョントラボルタと映画共演した「グリース」(1978)あたりからディスコで歌い踊ったり何か異常に元気過ぎるパワフルさが・・。1980年代になるとELOと「ザナドゥ」共演したり、レオタード姿になって「フィジカル」歌ったり・・、「あ~、やめてくれ・・俺の清純なオリビアのイメージが崩れていく・・!」と落胆したものです。でも今は大半の方のイメージは80年代に元気で飛び跳ねていた彼女の姿なのでしょうね・・。最後に小生が最も好きなバラードの「ドントストップビリーヴィン」(1976)にてあの清純なオリビアに思いを馳せたいと思います。(*^m^*)ぷっ mada yatteru ahotare (ToT)/~~   。


⇒次回は、世界的な伝説のスーパースター「マイケルジャクソン」の少年時代の名曲「ベン」お送りします。\(^◇^)/♪;




★(060):CCR 「雨をみたかい」(Have You Ever Seen The Rain)  (1971年)  (2013.3.30公開)


c0119160_3513877.jpgCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)、小生が洋楽に夢中になり始めた1970年当時に快進撃を続けていたロックバンドでした。CCRといえばいかにも米国南部を思わせるワイルドでカントリーっぽい特徴が印象的ですが、実は彼らの出身地はカリフォルニアだったと知りビックリ。リーダーのジョン・フォガティが同級生だったスチュワート・クック、ダグクリフォード、ジョンの兄トムフォガティを加えて1968年にデビュー。小生が最初に彼らの聴いたヒット曲は、「トラベリンバンド」や、「アップ・アラウンド・ザ・ベンド」「スィートヒッチハイカー」、激しいアップテンポ曲だったので最初はハードなロックンロールバンドとばかり思っていました。しかし今や彼らのスタンダードナンバーとなっている「雨を見たかい」(Have You Ever Seen The Rain)やカントリー色が溢れる「サムデイ・ネバー・カムズ」等を聴くと、一体このバンドは何が主流なのだろうと見極めができなかった時期も・・。デビュー当時は、「スージーQ」に代表されるようにコテコテのホワイトブルースバンドでしたが、1969年にはシングルカット「プラウドメアリー」が全米2位を記録していきなりの大ブレイクを果たすと、ブルース色は一気に薄れ、カントリー、ロカビリー風のシンプル&ストレートなロック(ザ・バンドの影響を受けた)へと一挙に変貌を遂げていきました。R&R感覚 のカントリー色が強い印象はリードギタリストでもあるジョン・フォガティの魅力ある声。エモーショナル&ブルージー、そしていかにも黒人っぽい雰囲気をもつパワフルなジョンのヴォーカルこそがCCRのイメージに繋がります。1972年に初来日・・、因みにこの頃は大物ロックアーティストの初来日が続々(レッドツェッペリン、ディープパープル、GFR、ピンクフロイド、イエス、EL&P 、シカゴ、T-REX、スリードッグナイト、フリー等)でML誌の記事を食い入るように読んだものだなア・・。しかしすっかりジョンのワンマンバンドと化していったことに他の3人の 不満が爆発。特にトムフォガティ(ジョンの兄)との不仲は決定的となり71年1月に遂にトムは脱退、3人での初来日となってしまいました。多くのヒット曲を連発しながらも輝いた実働期間はわずか3年・・、太く短くロック発展期を駆け抜けていったバンドでした。最後は名盤「コスモスファクトリー」から雨繋がりの曲「フール・ストップ・ザレイン」で締めることにいたしましょう。




★(059):ジャーニー 「ホィール・インザ・スカイ」   (1978年)  (2013.3.16公開)


c0119160_7462439.jpgWBC3連覇の偉業を目指し日本中を沸かせた「侍JAPAN」、その応援テーマは「ジャーニー」の往年の名曲「セパレイトウェイズ」でした。「ジャーニー」は、1980年前後に高完成度かつPOPなプログレハード・サウンドで我々を魅了してくれました。そして3月中旬、ジャーニーとサンタナ(前々回紹介した)が同時期に来日しましたネ~!恥ずかしながら不勉強で、2大バンドには深い縁があったことを最近まで知らなかった・・(両者の音楽性やイメージが余りにも違うので想像だにしておりませんでしたが、先日サンタナの記事を書いて初認識)。 1975年、元サンタナのメンバーだったニール・ショーン(ギター)&グレッグ・ローリー(キーボード)を中心にバンド結成、初期はプログレシッブ・ロック志向(インストゥルメンタル中心)で、全盛期のPOP感覚溢れるメロディックな音楽性とはかけ離れており人気・商業的には成功せず完全に低迷期でした。当時は専任ヴォーカリトは不在で、スティーヴ・ペリー(類い稀なる美声のハイトーンヴォーカリスト)はまだ在籍していませんでした。(グレッグ・ローリーの渋目のヴォーカリストが好きという人も多いようですが・・)彼らのことを、「産業ロック」(TOTOも同様)と陰口をたたく評論家まで現れましたが、あまりにも売れすぎたことへの皮肉という部分があったのかもしれません。しかし人気が出るのは当然かも・・、ジャーニーサウンドは、唸らせられる程の素晴らしい編曲と高い完成度、これらはメンバー成熟した彼らの実力と努力の成果というしかありません。今回はブレイクの契機となった4thアルバム「インフィニティ」(1978)からの名曲「ホィール・インザ・スカイ」を紹介します。この名盤は、プログレシッヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、スティーヴ・ペリーの伸びあるヴォーカルを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となっておりプラチナディスクを初めて獲得、「ライツ」「ラヴィン・タッチン・スクゥィージン」等の名曲を次々とヒットさせました。グレッグ・ローリー(ブルース色の音楽志向)は心労理由(彼の音楽性に合わなくなってきたのでしょう)で1980年に脱退しますが、後任に゙ジョナサン・ケインが加入するとさらにPOP路線へと傾倒拡大、「お気に召すまま」「フィーリング・ザットウェイ」等のヒット曲はその後のバンド方向性を明確に示すことになりました。そして1982年には、米国ロック史上の最高傑作の一つ「エスケイプ」(全世界で800万枚も売れた)が生み出されました。この名盤からの代表曲は「ドント・ストップ・ビリ-ヴィン」や「オープン・アームス」などキラ星の如く・・、まさに彼らの全盛期を迎えていくのでした。全盛時代の記事はまた次回、ジックリと紹介したいと思います。
(PS)ところで「スティーヴ・ペリー」とお笑いピン芸人「なだぎ武」、ソックリと思うのは小生だけなのでしょうか?アッ、失礼いたしました~、ペリー様!m(_"_)m (笑)





★(058):ラズベリーズ 「明日を生きよう」   (1972年)  (2013.3.3公開)


c0119160_77559.jpg小生が最も愛するアーティストの一人「エリックカルメン」がソロ活動に入る前に、リーダーとして活躍していたNICEなバンド「ラズベリーズ」(1972~1974)を紹介したいと思います。小生が高校時代に「明日を生きよう」(I wanna be with you)、「レッツプリテンド」等、深夜ラジオ番組から流れるラズベリーズのヒット曲を夢中になって聴いていたものです。当時は、バッドフィンガー(ビートルズの弟バンド)と同じ「パワーPOP」路線の代表として人気を博していたような気がします。ビートルズの雰囲気をもった親しみやすく美しいメロディ、パワー溢れる明るいサウンドで1970年前半の象徴的バンド、今も友人と洋楽カラオケで彼らの往年のヒット曲を歌うことが多いですネ~。今も美少年の面影を残すエリックカルメン(過去紹介したエリック記事はコチラ「第1巻」(003)から)、美しい歌声に素晴らしいPOPなリズム感覚、人を魅了するオーラが溢れており、天は二物も三物を与えるケースもあるんだなアと思う次第。ソロになってラフマニノフ交響曲などのクラシカルな一面を広げていった彼ですが、ラズベリーズ時代は、「トゥナイト」等のパワー感に満ちたロックサウンドとPOPな美しいメロディが融合した佳曲が多かったような気がします。「君に首ったけ」(Ecstacy)のPVは色っぽい美女が続々と登場!エッチですネ~!鼻血が出るかな・・(笑) そして最後は彼らの最大名曲の一つ「ゴーオールザウェイ」で締めましょう。ラズベリーズ音楽は瑞々しく、軽やか、力強く、若々しく、切なく、美しい・・。やはりエリック・カルメンの少し「鼻にかかった」ような甘い歌声、歌唱力に負うところが大きいと思います。彼の歌声は、「ラズベリーズ」の名に相応しく、甘酸っぱい印象を携えて、聴く者に若い日々の甘く切ない恋の記憶を甦らせてくれます。




★(057):サンタナ 「ブラックマジックウーマン」  (1970年) (2013.2.16公開)


c0119160_6202097.jpgロック史上に燦然と輝く偉大なるギタリスト達の中から「カルロス・サンタナ」の名前を外すことは絶対できません。この偉大なるメキシコ出身の名ギタリストも今年(2013)で66歳を迎えますが、今も第一線でバリバリ活躍しているのですから本当に凄いものです。彼独特の魔法の様なテクニカルプレイは誰も真似ることのできない神領域のようにも思えます。小生が夢中になった頃(1970前後)は「ブラックマジックウーマン」を代表曲とするラテンロックで超人気を集めていました。この名曲がフリートウッドマック(ブルースバンド時代)のオリジナル曲(ピーターグリーン作曲)だったと後程知ってビックリしましたが・・。カルロスが率いるバンド「サンタナ」の大ブレイクは歴史的なロックコンサート「ウッドストック」(1969)に出演したことでしょう。フィルモアの盟主・ビルグレアムに見出されていた新進バンドは歴史的な大舞台で「エヴィルウェイズ」等の渋くも衝撃的なラテンロック曲の数々を披露して一挙に注目され、その勢いを買って2ndアルバム「天の守護神」(1970年)は大ヒットとなりビルボード誌アルバムチャートNO1を獲得したのです。「ブラックマジックウーマン」とメドレーで繋がる一体曲「ジプシークイーン」は驚異のハイテクニック。そして「ジンゴー」や「僕のリズムを聞いとくれ」はバリバリのラテンリズムロック、むしろこのアルバムはアフロロックの雰囲気が強かったような気もします。しかしその後サンタナは音楽性を方向転換。1971年にニールショーン(その後ジャーニーの主力メンバー)が加入しツインギター編成してジャズロック色を強めた「キャラバンサライ」(1972年)を発表、さらにマハビシュヌオーケストラと組んで哲学的な音楽志向へと・・。この辺りからもう小生は完全についていけなくなりました・・・。(苦笑) しかし1976年にラテンロックに回帰した名盤「アミーゴ」をリリース、当盤からはかの有名な「哀愁のヨーロッパ」が日本でのみでシングルカットされ人気を博しロック名曲として語り継がれたのです。(哀愁を帯びたメロディが日本人感性にピッタリ調和したのでしょうネ~)。その後の20数年は雌伏していたように見えていましたが、何と1999年に再び奇跡の復活で大ブレイク!ロブトーマスとコラボした「スムース」が全米1位になり、アルバム「スーパーナチュラル」(セッションマンとコラボスタイル)はグラミー賞9部門独占の快挙を果たしたのでした。サンタナはラテンロックにとって伝説の導師・シンボル的存在。今年の3月に来日とのことですが、沈静化していた日本にラテンの元気を与えてほしいものです。最後に小生お気に入りのラテンロック名曲「君に捧げるサンバ」を聴きながら、今後もサンタナが原点を忘れず古稀になっても活躍を続けてくれることを祈念!





★(056):ダニエルパウター 「ベストオブミー」 (2010年) (2013.2.2公開)


c0119160_642090.jpg60年近いロック・POPS史から、ピアノのロックアーティスト・ソロ吟遊詩人を列挙しようとすると意外に少ないなアと気付かされます。エルトンジョン、ビリージョエル、レオンラッセル、ギルバートオサリバン、ベンフォールズ・・くらいですかネ~。長い音楽史が刻まれていても、有名になって栄光に輝き名前を残したロックピアノマンがたった数人しかいないとは・・、商業的に大成するには意外と難しい分野なのかもしれません。21世紀に入ってブレイクしたピアノマンと言えばやはり「ダニエルパウター」が筆頭に挙げられます。2006 年のデビューシングル「バッド・デイ」(ついてない日の応援歌)がグラミー賞にノミネートされ、同年のビルボード・シングルチャートでは年間1位を獲得、1st アルバムも全世界で約300万枚のセールスを記録しました。 35歳でのブレイクはまさに遅咲き桜(現在42歳)、苦労が長かったカナダ出身のピアノマンの優しい歌声とPOPなピアノ旋律には、聴き手に癒しとリラックス効果を与えるような才能が秘められている気がします。とはいえ大ブレイク後の3年間はパッとせず再び苦悩、2009年ビルボード誌から最近10年での「一発屋」(落差が大きかったアーティスト)第一位に認定されるなど再び低迷の汚名を頂き紆余曲折の道へ・・。しかし2010年には上記掲載曲「ベストオブミー」が収められた「アンダーザレーダー」をリリース。さらに同年のアルバムからの「ネクストプレインホーム」など多くの佳曲を発表、昨年(2012)には「恋のキューピッド」をリリースして来日、元気の復活は実に嬉しいですね~!人生は常に「塞翁が馬」・・、ダニエルパウターには今後も是非頑張ってもらい、記憶に残る歴代ピアニストとしてその名を残してもらいたいと願っております。最後に彼の名曲「フリーループ」を聴きながらさらに応援歌!

  # by rollingwest | 2001-07-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(97)

RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第6巻)

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★(055):クリーム 「ホワイトルーム」   (1968年)    (2013.1.19公開)


c0119160_8511169.jpgロック発展期(1966~1968年)にブルースロックからハードロックへの橋渡しをした「クリーム」の代表曲「ホワイトルーム」を久々に聴いてみたいと思います。ロック史に多大なる影響を与えたスーパートリオは、ジャックブルース(迫力・個性のベースソロ)、エリッククラプトン(ご存知3大ギタリストの一人、ワウテクニックを披露)、ジンジャーベイカー(インチキ臭い風貌のジジーに見えるが若々しくパワフルなドラム)の個性派揃い・・! オリジナルアルバムは4枚だけでしたが、技巧的なヘビーな演奏とサイケデリックデザインのLPジャケットが今も強く印象に残っています。ジャックブルースのアクの強いボーカルとベースリフが圧巻の「政治家」や、ロバートジョンソンの往年のブルース名曲をヘビーロック風にアレンジした「クロスロード」は最高にカッコ良かったなア!デビューアルバムからのヒット曲「アイフィルフリー」を聴くと60年代後半の英国サイケデリックバンドの雰囲気も十分漂っており(皆、若くてアイドルバンドみたい!)、ものすごく面白い。トリオバンドといいう最小形態ながらも重厚な迫力あるサウンドを放っていたクリーム・・、リーダー不在で3人の個性がぶつかり合い各自が好き勝手に演奏し競い合っていたことが魅力的でした。しかしそれが仇にもなり、ジャックブルースとジンジャーベイカーの確執は高まり、その対立の中に挟まれて苦悩するエリッククラプトンという構図が見えておりグループは分裂。 クリーム解散後、ジャックブルースはその後「マウンテン」結成(後日紹介予定)などソロ活動、クラプトンはブラインドフェイスやデレク&ドミノスの活動を経て徐々にアダルトコンテンポラリー路線へ、ジンジャーベイカーも昨年来日するなど皆さん今もなお元気に音楽活動を続けておられます。クリームは僅か2年余りという短い活動期間ながらジミヘンと共に、ハードロック全盛期に向けてレッドツェッペリンやディープパープルなどに道筋を指し示したバンドとして、ロック界に対して果たした功績は余りにも大きいのです。最後にホワイトルームと並ぶ双璧の名曲「サンシャインオブヨアラブ」を聴きながら、ハードロックの原点はこのグループだという評価をあらためて噛みしめ直してみましょう。


⇒次回は、21世紀の遅咲き・吟遊詩人(ピアノマン)、ダニエルパウターの「ベストオブミー」をお送りします。\(^◇^)/♪




★(054):エレクトリック・ライト・オーケストラ  「エヴィルウーマン (1975年) (2013.1.6公開)


c0119160_8385432.jpg今年最初の「My Favorite Songs」は、小生が大学時代に夢中になった英国バンド「ELO」(エレクトリック・ライト・オーケストラ)より新春・筆初めといたしましょう。「ELO」はかつてギネスブックに「最も多くの全米TOP40ヒットを飛ばしたグループ」としても紹介された1970年代の代表的なヒットメーカーです。初めてその名を耳にするという方でもTVドラマ「電車男」の主題歌「トワイライト」を歌っていたグループと聞けば成る程と頷くかも・・・。「ELO」は1971年に、60年代の前衛バンド「ザ・ムーブ」に在籍していたロイ・ウッドとジェフ・リンの二人によって結成されました。初期はプログレシッブロックに通じる実験的な試行錯誤を重ねていましたが、70年代中盤からはビートルズ的なサウンド志向を強めて世界的なPOPSバンドへと変貌していったのです。1974年の「エルドラド」が初の全米ゴールドディスクを獲得すると一気にブレイク、1975年「フェイスザミュージック」、1976年「オーロラの救世主」(プラチナディスクに輝く)と、順調にヒットチャートの常連へと成長。その後、2枚組大作名盤「アウトオブザブルー」(1977年)へと大輪の華は開いて行きました。1978年に初来日、小生は従兄弟と一緒に日本武道館LIVEに行きその演出の素晴しさに目を丸くしたものです。場内が突然暗くなり、武道館にレーザー光線が飛び交い・・・・不気味なイントロから一挙に夢幻の舞台が始まったのです。レーザービームが飛び交う中に巨大UFOを出現させ、メンバーがその中で演奏するという大掛りな演出は、当時では最先端技術を駆使した内容で世界的にも大いに話題となっていました。このバンドが放ったヒット曲は余りにも多いのでどれを取り上げようか・・、と非常に悩みます。小生は70代後半以降のPOPになりすぎた「ELO」よりも、個性的な雰囲気を残し拘りを持っていた頃の名盤「フェイスザミュージック」に収められている名曲「エヴィルウーマン」を今回の掲載曲と致しました。このアルバムはヘヴィーロックとクラシックの要素、POPな一面など全てが完璧に融合されて出来上がっている名盤であり小生は最高傑作の一つと思っています。「リヴィングスィング」「ストレンジマジック」等の名曲を輩出していた頃の「ELO」には、クラシック融合ミュージックを凝縮したような弦楽器による世界最小のオーケストレーションを目指す独特の姿勢がありました。ジェフ・リンという音楽天才によって指導され、世界的なメジャーバンドに成長していった「ELO」・・。その後、POP志向やディスコサウンド(オリビアニュートンジョン主演映画「ザナドゥ」のサウンドトラック)、ビートルズメンバーとの交流も深め「アンソロジー」のプロデュースなど活躍の場を広げて行きました。その当時のヒット曲の数々はまた後に紹介したいと思います。最後に彼らの代表曲である「テレフォンライン」を紹介して今回は2013初筆を締めたいと思います。メイン曲掲載にすべきか最後まで選択に悩んだ名曲・・・、ケータイやスマホで軽いノリの電話メールで意思を伝える現代から見れば、受話器で相手への想いを紡ぎ合う様に語らう(小生は全く無縁でしたが・・苦笑)懐かしき時代の曲でした。ELOは大胆なストリングス導入とジャンルを問わない多彩なPOP曲の数々、ある意味ではビートルズの雰囲気を70~80年代で再現したバンドと言えるのかもしれません。





★(053):ビートルズ「ゴールデンスランバー、~ジ・エンド」  (1969年) (2012.12.24公開)


c0119160_6225342.jpg激動の2012年も残すところあと僅かとなりました。この時期になると1年間の物故者がレビューされますが、我々が青春時代に愛した往年の洋楽アーティスト達も次々と天に召されていきましたネ~。デイビージョンズ(モンキーズ)、ロビンギブ(ビージーズ)、ジョンロード(ディープパープル)、レヴォンヘルム(ザ・バンド)、ドナサマー、ホイットニーヒューストン、アンディウィリアムス・・等。 ロック黄金期を支えた人たちも前期高齢者世代になっているので致し方なしか・・、来年はさらに多くの訃報に接していきそうです。しかし対照的に、ローリングストーンズやビーチボーイズは古希を迎えながらも結成50周年コンサートツアーを完遂し、その元気さに改めて驚かされました。そして2012年はビートルズにとっても結成50周年メモリアルイヤーであり、彼らの偉業を称える数々のイベントが開催され世界中のファンがビートルズを思い起こす機会が多かったと思います。ビートルズがデビューした10/5は英国リバプール(彼らの誕生地)にファンが集まり1600人で「ラブ・ミー・ドゥ」(デビュー曲)を輪唱するというギネス記録が達成! ロンドン 五輪開幕式(7/28)ではポールマッカートニーが登場して歴史的な名曲「ヘイジュード」を歌い、閉幕セレモニーではジョンレノンのオブジェとともに「イマジン」が流れていました。また5/22には、「アビーロード」の横断歩道をメンバー4人が逆向きに歩いている未使用写真がロンドンで競売に掛けられニュースとなったことを覚えていますでしょうか?「アビーロード」といえばご存知、ビートルズの金字塔となったラストアルバム・・、この名盤のB面メドレーは何度聴いても圧倒されるんですヨネ~。今年最後の「My favoritesong」は緩急起伏に溢れた連続曲のクライマックスを担う象徴曲ゴールデンスランバー、~ジ・エンド」で締めたいと思います。ピアノで始まる出だしの“Once there was away”・・「かつてそこには道があった、戻る道が」と静かに始まり、大団円へと向かっていく高揚感は何度聴いても飽きません。連続メドレーに入る前に、まずはリンゴスターーのおとぼけ名曲「オクトパスガーデン」から紹介。今年いくつか他の3人の名曲を掲載しながらもリンゴだけ忘れておりました~、失礼 m(_ _)m~! B面メドレーの開始冒頭は、「ユー・ネヴァー・ギブ・ヨアマネー」(今回は生演奏6分バージョンで紹介) 、ポールが成し遂げた3メロディ曲から構成される組曲でした。次は「サンキング」、ジョンのゆったりとリラックスしたボーカルに絶妙コーラスが色を添えます。(スペイン語みたいな呪文のような歌詞が印象的)、そこから突然アップテンポの「ミーンMRマスタード」(最後の戯れ曲「ハー・マジェスティ」も添付)が小気味よく展開されていきます。そしてビートルズの最後となった曲は「ジ・エンド」(まさに曲題そのもの・・)、「And in the end ~・・!the love you take Is equal to the love you make~・・」(結局あなたが得る愛は、あなたが捧げる愛に等しいのだよ)・・・、この力強い演奏と余韻を残しながらビートルズは去って行きました。まさに「ゴールデンスランバー」(黄金のまどろみ、うたたかながらも最高の夢)・・、「たった8年間の活動の中で紆余曲折も色々あったけれど、我々はロック史に残る大きな偉業をなし遂げやり切ったぞ!」という充実感とプライドが最後に溢れているような気がします。 「My favoritesongs」もお陰さまで50回を迎えましたが、目標500回を目指してボケずに長生きしたいと思います。それでは皆様、よいお年を~!来年もまたよろしくお願いいたします。




★(052):ニルソン 「ウィズアウトユー」   (1971年) (2012.12.11公開) 


c0119160_20305288.jpg年に1~2回、大学時代仲間と「洋楽歌いまくりの会」(主に70年代のPOPS・ロック)で集いますが、小生は絶叫系の名曲が大好き!ニルソンの「ウィズアウトユー」は最も得意とする曲(他人も呆れる自己陶酔)の一つです。この曲を初めて聴いたのは高校一年生の時、その切なげなる美しい絶叫声に圧倒されてしまい一遍で虜に・・、まさに感動的・衝撃的な出会いでした。曲名や歌手を知らない人でも誰もが一度は耳にしたある歴史的な名バラードと言っても過言ではありません。今どきの若者はやはり「マライアキャリー」versionが一番の馴染みだと思いますし、80年代POPSが好きな方は「エアサプライ」versionもあるぞ!と主張されるかもしれません。 しかし「ニルソン」versionに優るものなし!ゴスペル色の強い有名なピアノイントロから始まり、悲しげな歌は静かに進んでいきますが、高まるサビ部分では「もう君なしではいられない!」と一挙に泣き叫ぶようなクライマックスを迎えます。まさにドラマチック!ハリーニルソンは1941年生まれの米国人で銀行員をしながら作曲家(小椋佳みたいだ・・)として1960年代初頭から活動していましたが、暫くは日の目を見ることはなかったようです。しかし、プロデューサーとして名高いフィル・スペクターの目に留まり、モンキーズやヤードバーズに曲を提供した後、1967年にシンガーソングライターとしてデビューしました。1stアルバムをビートルズの面々に聴かせたところ、ジョンレノンがこれを大いに気に入りニルソンに国際電話をかけて「君のアルバムは素晴らしい。」と最大級の賛辞を贈ったそうです。その後、1968年リリ-スの「ワン」がスリードッグナイトに取り上げられ、全米5位の大ヒット、また「うわさの男」は映画「真夜中のカウボーイ」(1969)の主題歌に起用され全米6位、そして71年のアルバム「ニルソン・シュミルソン」からシングルカットされたこの名バラードが72年に初の全米1位を記録し、世界中で大ヒットしたのです。小生は当初から30数年間、この曲は彼のオリジナル曲と信じ込んでいましたが、実は「バッドフィンガー」versionがその提供原曲でした。バッドフィンガーは中心メンバー2人が自殺してしまった悲劇のバンドですが、ビートルズの弟バンドと注目されたグループ(青春時代に大好きだったこのグループも近日中に特集予定)。ハリーニルソン名曲出会いの縁は、ジョンレノンの仲介によって実現されたのかもしれません。しかしニルソンは1994年に52歳と言う若さで糖尿病を患い天に召されてしまいました。彼の豊かな才能によって数々の印象的な作品が残され、シンガーソングライターに分類されることが多いニルソンですが、コンサート活動を一切行わないというスタンスや独自性を保った音楽姿勢もあり、どの音楽ジャンルにも属なさい孤高の人のような印象があります。





★(051):ジュリアンレノン 「ヴァロッテ」   (1984年) (2012.11.26公開)


c0119160_031583.jpg恒例の12月8日(ジョンレノン命日)が近づくと、ah、また年の暮れが押し迫ってきたなア・・と毎年思います。今回はジュリアンレノン(ジョンレノンの最初の息子)が21歳で世界に衝撃デビューした名曲「ヴァロッテ」(1984年)を紹介し、ジョンへの追悼の気持ちを伝えたいと思います。歳を取ると月日の経つのが早い・・。今年はビートルズのデビュー50周年、ロンドン五輪開会式でポールが「ヘイジュード」を歌い閉会式ではジョンの「イマジン」で締めくくられた節目の年だけあって、ジョンの命日に特別な思いを寄せる方も多いかもしれません。「ジョンレノン生誕70年、暗殺30年目の命日」(2010/12月記事)はコチラから。ジュリアンは本当に声・ルックス・雰囲気ともそっくりで、まるで生き写しの様です。彼がデビューした1984年といえばジョン暗殺(1980)ショックからまだ世界が立ち直れていない頃だったので、父親似の顔と声を携えた息子の衝撃的登場は全てのジョンレノンファンのテンションを思いっきり刺激していました。 「アイドンワナノウ」「ソルトウォーター」」の歌声を聴いてみれば皆様も十分納得のことと思います。「デイアフターデイ」のユーチューブを見ると反戦に燃えたジョンが自らが兵士役出演した映画「僕の戦争」の姿にまさに瓜二つ・・と驚いてしまいます。当時ジョンと先妻シンシア(ジュリアンの母)との仲は険悪で離婚寸前状態でした。ビートルズナンバーでは常にNO1順位になる世界的名曲「ヘイジュード」(1968)は、ポールマッカートニーが当時5才のジュリアン(ジュードは彼の愛称)を元気付けた歌としてあまりにも有名。その狭間で父親ジョンに愛されなかった可哀相なジュリアンを励まそうとするポールの優しい気持ち、これが歴史的名曲として刻まれ21世紀の英国五輪で世界中の聴衆を魅了したのですから感慨も深い・・。 その後、ジュリアンは「フォトグラムスマイル」等の名作も出した後、長いブランクを経て2009年に幼な馴染みの追悼曲「Lucy」(Lucy In The Skyの由来)を発表、2011年には評判の高い「Everything Changes」もリリースしました。「父に対する怒りや苦しみを持ち続けていたら、残りの人生、僕の頭の上にはずっと暗雲が覆うことになるって最近気づいたんだ。」・・、数年前に悟った如く語ったジュリアンの言葉を聞き、天国のジョンは苦笑いしながら申し訳ない気持ちで息子の成長を喜んでいるのではないでしょうか。




★(050):ローリングストーンズ 「レディジェーン」   (1966年) (2012.11.13公開)  


c0119160_2018764.jpgマイフェイバリットsongsも遂に50回の節目となりましたが、まだローリングストーンズの曲を取り上げておりませんでした。大変失礼~m(_ _)m ビートルズ・ビーチボーイズと並び今年結成50周年を迎え、現在もなお休むことなく転がり続けている偉大なるストーンズ、「アーティスト別名盤レビュー・第4回」では【ストーンズ特集】を公開しましたが、本シリーズ節目50回は今は亡きブライアン・ジョーンズの視点から取り上げてみたいと思います。 ブライアンはストーンズの創始者(名付け親)・初期リーダーでしたが、1969年に謎の死を遂げ現在は名前すら殆ど忘れ去られた存在となってしまいました。ブライアンは作曲こそしませんでしたが、多才な演奏家でスライドギター・ハーモニカ・ピアノ・シタール・リコーダー・木琴・クラリネット等30種類以上の楽器演奏を駆使していたのです。今回の紹介曲「レディジェーン」は小生が愛する「ルビーチューズデイ」「涙溢れて」と並ぶ60年代3大美曲ですが、ブライアンのダルシマー(ハプシコード先祖楽器)が冴え渡り実に印象的です。その他にも 「黒くぬれ!」のシタール演奏(ジョージハリスンがインド風アレンジで使用)、「ルビーチューズデイ」のリコーダー演奏は永遠に残る佳曲として有名ですネ!初期ストーンズの進路を引っ張ったのはブライアンでしたが作詞・作曲の才能には恵まれず、逆にミックとキースの創作能力はドンドンと向上しバンド主導権を握られていきます。居場所が無くなったブライアンは麻薬に溺れ演奏活動が出来なくなり、1969年6月にリーダーでありながら遂にストーンズから追放されてしまいました。そして脱退後、1ヶ月も経たないうちに自邸プール底に沈んでいる姿が発見され、悲劇的な死(真相は自殺・殺害説など様々な憶測)を迎えたのです。後継者ミック・テイラーのお披露目となったハイドパークLIVE(1969)は、急遽ブライアン追悼コンサートとなりました。「ホンキートンクウイメン」はその貴重な映像です。ロック史に深く刻まれる名曲「悪魔を憐れむ歌」はブライアン最後参加となった曲で、これを完成させるまでの過程を撮影し一本の長編ドキュメンタリーに仕上げたのが映画「ブライアンジョーンズ ストーンズから消えた男」(2005年)でした。初期ストーンズは間違いなくブライアンの高い音楽性なしに今に至る地位は築くことはできませんでした。彼を切り捨て50年間もロック界トップの地位を保ち続けるストーンズのしたたかさ、常に先進に立ちながら基本的な音楽性を変えず古希を迎えている元気なるジジー達の姿・・・、若くしてあの世にいった繊細なるブライアンは草葉の陰から半世紀も続くストーンズの栄光をどのように見詰めているのでしょうか。

  # by rollingwest | 2001-06-01 00:00 | Comments(116)