「My Favorite Songs」(第18巻)

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★(113)ピンクフロイド 「エコーズ」(PART-1) (1971年) (2015.1.9公開)



c0119160_209518.jpg小生が最も愛する「ピンクフロイド」の最高傑作は1970年初頭に輩出した「原子心母」(第2巻:015)&「おせっかい」(Meddle)の2大アルバム・・・、小生にとっては今も偉大なる金字塔として永遠に輝いている崇敬の名盤です。世間一般的には歴史的NO1アルバムは「狂気」(the dark side of the moon)と評価されていますが、RWにとっては神秘性が欠ける印象を受け期待が裏切られた・・と当時はガッカリしてしまいました。それだけ「原子心母」「おせっかい」から受けた衝撃と感動がいかに大きかったのか・・と今あらためて思うのです。上記に紹介した「エコーズ」は名盤「おせっかい」(1971)のラストトラックであり23分30秒という当時では常識外れの長大曲(B面全てが単一曲)でした。ピンクフロイドファンから最も人気の高い本曲の冒頭は「ピィーン!」と響き渡る幻想音、デイヴ・ギルモアとリック・ライトが静かに語り合うようなツインリードでヴォーカルを展開し、唸らせられる素晴らしいギルモアのギタープレイ、ニックメイスンの大迫力のドラム(まるでボンゾの如し)、メンバー4人の持ち味が見事に溶け合った壮大な宇宙観が表現されています。「エコーズ」は、映画「2001年宇宙の旅」のBGMにも採用され、、映画ラスト23分映像とも完全にシンクロしていたのでした。今回紹介した「エコーズ」の映像(PART-1と2に分割)は、ポンペイ遺跡(イタリア)で無人観客でのライブを収録したエイドリアン・メイベン監督の映像ドキュメンタリーで、1973年にNHK番組「ヤングミュージックショー」で放映されたものです。当時は洋楽アーティスト映像を見られることは殆どなかったので、興奮しながら齧りつくようにTVに釘付けとなった高1時代の在りし日の自分が蘇ってきます。「おせっかい」は1971年に発表されピンク・フロイドが一大飛躍を遂げた作品であり、オープニングを飾る迫力のインストゥルメンタル曲は「吹けよ風、呼べよ嵐」!冒頭から風の音が20数秒流れた後に、ロジャー・ウォーターズによる不気味なベースが鳴り響き、リック・ライトのシンセサイザーとがコラボする印象的な楽曲で日本でも大ヒットしました。途中で聴かれる叫び声はニック・メイスンが「いつの日か、お前を細切れにしてやる・・」と悪魔のように唸っています。中盤のアコースティックな小曲群にもかなりの趣があり、「ピロウオブ・ウインズ」「フィアレス」(最後の群集シュプレヒコールはサッカーサポーターが勝利に酔いしれる歓声の如し)はピンク・フロイドのもう一つの顔・・、静謐サウンドの象徴曲とも言えましょう。RWがフロイドのメンバーの中で最も大好きだったのは「エコーズ」でリードヴォーカルを取っている「リック・ライト」(今はリチャード・ライトと呼ぶらしいが・・)でした。地味な存在ながらも初期フロイドにおいてライトのキーボード演奏(メロトロン、シンセサイザー等)は独自世界のサウンド形成に大きな役割を果たしていたからです。他プログレバンドの代表的キーボード奏者(キース・エマーソンやリック・ウェイクマン等)のように超絶的な速弾きや目立ったソロプレイを披露することはありませんが、全体を包み込むような幻想的なサウンドを奏でていたリックライトの姿(童顔で可愛らしい)が実に魅力的なのでした。それでは超大作後半の「エコーズ」(PART-2)を聴いて頂きその真髄を再度堪能してみて下さい。リック・ライトは初期ピンク・フロイドにおいては、シド・バレットと共に音楽的には主導的立場にありましたが、1970年代中盤以降はバンド内での存在感が薄くなっていきます。特にリーダーシップを執っていたロジャー・ウォーターズとの対立で相当にいじめられ、ついには1979年解雇される事態にまで発展しました。そしてピンク・フロイド脱退後は、ドラッグに溺れていき一時は地獄のような日々を送り、2008年に癌のため65歳で死去しています。しかし失意のままで亡くなったのではなく、晩年の彼は再びピンクフロイドに迎えられて幸せな時間を過ごすことができていたのです。1987年、デイヴ・ギルモアとニック・メイスンがピンクフロイドを再始動させ、ライトはアルバム「鬱」のサポート・メンバーとして参加、そして同年に開始したワールドツアーより正式メンバーとして迎えられました。ついに往年のメンバーと縁を取り戻せてよかったですね~、ライトさん!そして今回記事のLASTは、アコースティックバージョン版「エコーズ」を聴いて頂き、締めとしたいと思います。デイヴ・ギルモアが主体となったスタジオセッションで、2005年前後(彼らが還暦前後)の映像ではないかと思われます。大型音響機材は使わず手作り感で演奏しているにも関わらず、往年の壮大曲をほぼ忠実に再現しているのですから本当に驚かされました。そして嬉しいのはキーボードを演奏しているとリック・ライトが笑顔で元気に共演していること・・、仲間たちと楽しそうによき時間を過ごしている感じが伝わってくるではありませんか!癌で人生終焉を迎えたリックライトの脳裏には、ピンクフロイド時代のさまざまな出来事が走馬灯の如くよぎり、かつての同志達といい時間を過ごせた・・と最期は満足感に浸っていたのかもしれません。


⇒次回は、ビートルズ・サウンドの遺伝子を受け継いだ80年代の英国バンド「ティアーズ・フォー・フィアーズ」の「シーズ・オブ・ラブ」をお送りします。♪\(^◇^)/♪





★(112)サラ・ブライトマン 「クエスチョンオブオナー」 (1995年) (2014.12.28公開)

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c0119160_9301325.jpg何かもう遠い昔の様ですが、世界中が2014年W杯ブラジル大会に熱中していたのは僅か半年前・・、わが国民も「サムライブルー戦士達はベスト4に行けるのでは!」・・なんて、今から思えば大いなる勘違い(傲慢だったかも)をしていました。しかし高い目標を掲げて努力を重ねなければ大きな夢が叶えられないのも事実。今年最後(&新年冒頭)のRW洋楽マイフェイバリット曲は、日本国民にサッカー応援BGMとしてすっかり脳裏に刷り込まれているサラ・ブライトマン(英国ソプラノ歌手&女優)の「クエスチョンオブオナー」を聴きながら、夢が持てる2015新年を迎えてみたいと思います。曲名を聞いてピンと来ない人も、中盤サビの部分まで来れば殆どの人が「聴いたことがある!」と気付くことでしょう。2002 W杯(日韓共催)日本vsチュニジア戦から採用され12年間もTV(テレ朝系)で流れ続けており、またトヨタ・マークXのCM曲にも採用されたので耳覚えがある筈・・。オペラ名曲「アリア」(邦題:「さようなら、ふるさとの家よ」)で荘厳な雰囲気で始まり、衝撃的な導入部イントロ(バイオリン&シンセサイザー)から徐々に高まりドラマティックに変調、そしてバックコーラスと交錯する唸るギターのリフレイン(まさにハードロックの真骨頂)、クライマックス部分はサラ・ブライトマンのハイトーンヴォイスが感動的に響き渡ります。やがて曲は静けさを取り戻し、余韻の中で再び彼女はオペラ歌手へと戻り「アリア」の旋律が・・。そして最後はオペラ絶唱とともに劇的な幕切れで曲が締めくくられるのです。嗚呼・・、なんて素晴らしいオペラ&ロックの組曲!フルで聴きこむと、その計算され尽くされたアレンジの素晴らしさ、躍動感あふれる劇的な展開は何度聴いても感動を覚えますネ~。「オナー」とは和訳すれば「名誉」、その曲名の由来は騎士道の精神を現す決意の言葉から来ています。「これは生きるか死ぬかの問題ではない。名誉の問題である!まさにサッカー日本代表が「ドーハの悲劇」で涙に暮れたあの日から20余年、そこから這い上がり着実に進化・成長をし続けてきたサムライブルー!1998年にW杯初出場を成し遂げ、1次リーグ突破(2002、2010)、そして今回(2014ブラジル大会)は残念な結果でしたが「次回2018ロシア大会こそはベスト8以上の夢を叶えよう!」という応援歌として実に相応しい曲なのではないでしょうか!小生もその夢を叶えてもらうため、最近はカラオケのマイ定番に本曲を加えて絶叫しているところでございます。(笑) サラ・ブライトマン(1960年生まれ )は、1980年代にミュージカル女優としてデビューし輝かしい成功を収めました。その契機は1981年の新作ミュージカル「キャッツ」のオーディションでジェミマ役を射止めたことに始まります。その後、彼女は数多くのミュージカルに出演、1986年に「オペラ座の怪人」のヒロイン役として大ブレイク、さらに1996年にはアンドレア・ボチェッリとのデュエット「大いなる世界」(タイム・トゥ・セイ・グッバイ)が爆発的にヒットし、ついに彼女は世界的なメジャー歌手としの地位を築き上げました。1990年代以降は、現在世界的な隆盛をもたらしている「クラシカル・クロスオーバー」(クラシックとPOPS・ロックを融合させた独自の音楽スタイル)の第一人者として活躍しており、米国ビルボード・チャートのクラシックとダンスの両音楽部門で同時1位を獲得した世界唯一の歌手なのです。このルーツは1970年前後でロック音楽が融合発展した歴史にあり、彼女はピンクフロイド(プログレロック)やデヴィッドボウイ(音楽変化の最先端)、クイーン(ロックオペラ)などに大きな影響を受けていたのです。当時の熱きロックアーティスト達のチャレンジ精神や熱気がサラブライトマンに受け継がれ、ついにクラシックとPOPS・ロック融合の頂点が極められたとは・・何と素晴らしいことではありませんか!サラブライトマンは日本に対して非常に深い親しみを持ってくれています。1991年のNHK紅白歌合戦に出演し「オペラ座の怪人」を歌い、2007年にはポケモン映画主題歌「ビー・ウィズ・ユー 〜いつもそばに」を披露、2009年はNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の主題歌「Stand Alone」(久石譲作曲)を、 2013年では「となりのトトロ」のBGMとして有名な「風のとおり道」を日本語で歌ってくれているのです。そしてLASTは、シューベルトのクラシック名曲「アヴェマリア」とミュージカル名曲「ランニング」(ジュピター~栄光の輝き)(in 東大寺)で締めさせて頂きます。ジュピターはグスターヴ・ホルスト (英国作曲家)による組曲「惑星」から「木星」に歌詞をのせてアレンジした壮大な曲(日本では平原綾香が歌って有名になりました)、まさにオペラとロックが完全融合した最高に素晴らしい世界に引き込まれます。この曲は日本で開催された大阪世界陸上(2007年)の開会式で初お披露目された曲ですので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。またオリンピック大会の公式テーマ曲を2度にわたって歌ったアーティストは、サラ・ブライトマン(1992年のバルセロナ大会、2008年北京大会)が初めてです。やはりこの方は凄い~!もっともっと世界的にビッグな伝説的歌姫となっていくことは間違いありません。
(PS):いよいよ1月にサッカーアジア杯が開幕!「クエスチョン・オブ・オナー」を熱い応援歌に日本の連覇優勝を祈願しましょう!




★(111):ギルバートオサリバン 「クレア」 (1972 年) (2014.12.17公開)



c0119160_12124015.jpgギルバート・オサリバン・・、小生が彼の名前と風貌を初めて目にしたのは1972年、誰もが知っている最大名曲「アローンアゲイン」(全米1位)をひっさげて一挙に世界的ブレイクをした年です。「アローンアゲイン」のEP盤写真は刈り上げ髪型で鳥打帽を被りニッカボッカというアナクロな姿・・(帽子で頭でっかちが強調されて目つきもどこか変・・、曲芸一座の旅芸人かいな?)、当時はハードロック・プログレ・グラムロック全盛時代だったので、突然登場してきた時代錯誤の奇人変人にかなりの違和感を覚えたものです。しかし独特の感性を持つ不思議な人には一挙に魅せられてしまった!ピアノ・弦楽器を使った曲が多く哀愁漂う懐かしい曲調が多いのですが、アップテンポ曲もあったり陽気さも散りばめられたものも多く、その音楽性の幅広さに感心したものです。当時はポールマッカートニーの再来とも言われ、ポール本人も後継者として認めたほどのシンガーソングライター(アイルランド出身)だったのですよ!デビュー曲「ナッスィング・ライムド」(1971)が収められた「ギルバート・オサリバンの肖像」(ジミーペイジもアコースティックギターで参加!)は完成度が高く、コアなファンはこのアルバムが最高傑作と称賛する方も多いようです。冒頭に紹介した「クレア」(アローンアゲインに続いて大ヒットしたナンバー)は、口笛から始まり幼女の笑い声で終わるほのぼのさ・・、優しさと温かみが伝わってきて実に印象的な名曲でした。クレアとは当時3~4歳の実在した女の子(オサリバンと鉄壁コンビだったマネージャー・ゴードンミルズの末娘)で彼は大変可愛いがっていたようです。「アローンアゲイン」(哀愁曲)⇒「クレア」(ほのぼの曲)に続いて放った第3弾はノリのいいリズムでヒットした「ゲットダウン」(1973)、この曲も大好きでしたね~!しかし1970年代中盤になるとすっかり彼の音信は不通になってしまいました。実は今回記事の執筆で初めて知ったのですが、鉄壁コンビだったゴードン・ミルズ(クレアの父親)がロイヤリティを多く取り過ぎており、2人は訴訟争いを繰り広げていたとのこと。こんな状態ではまともな音楽活動ができなかったのも当然か・・と今になってようやく理解した次第。小生にとってはオサリバンは1970年代初頭だけで輝いた閃光的なアーティストのイメージでしたが、1980年には「ホワッツ・インア・キッス」のヒットで復活し、1990年代には7回も来日を果たしていたこともあらためて知りました。TVドラマ「あの日の僕をさがして」という番組の主題歌に「トモロウ・トゥデイ」(1980)という曲が使われ国内でオサリバンブームが再来していたようです。長かった訴訟争いは結果的にオサリバンが勝訴して損害賠償額700万ポンドを受け取ったようですが(敗訴したゴードンミルズは1986年に死去)、その後の彼にはヒットチャートを賑わすこともなく今に至っています。時が経つのは早いもの・・、当時可愛い盛りのクレアももう40歳後半を迎えているわけか・・・。クレアおばさんは、2人の争いを目のあたりにしてどのような心境で40数年間を過ごしたのでしょうか?自分を歌ってくれた心あたたまる愛の歌「クレア」や「Happiness is me and you」などの名曲を聴きながら余計に悲しくなったことでしょう。最後の曲はやはり師走を迎え季節感にあわせて、オサリバンの「クリマスソング」で終えたいと思います。嗚呼、光陰矢の如し・・



★(110):シカゴ 「流血の日」(someday) (1969年) (2014.12.6公開)



c0119160_21134820.jpgRWが本格的に洋楽に嵌ったのは1970年(ビートルズ解散直後の中学2年)・・、初めてLPレコードを購入したアーティストは①S&G、その次が②エルトンジョン⇒③「シカゴ」⇒④ピンクフロイド⇒⑤ツェッペリン(⑥・・以下省略)の順番でした。ビートルズの方は、弟をたぶらかし「歴史的名盤を集めるのはお前の役目だ!」と命じて彼の小遣いから購入させ、小生の方は1969年から登場してきた新進気鋭のロックアーティスト達の話題盤を次々とGET、日々進化し発展していく1970年初頭ロックの激動パワー・うねりをリアルタイムに体験していったものです。この時代のロックはジャズ・クラシック・ラテン・アフロ音楽等、異分野との融合が次々と進み、ハードロックやプログレと並んで「ブラスロック」(BS&T、シカゴ、チェイス)も一大ジャンルとして世界を席巻していました。現在はBS&Tが唯一頑張っている印象かな・・。シカゴといえばAORバンドと認識する方が殆どと思いますが、RWにとっては1970後期以降の彼らは完全変節してしまった姿としか映りません。確かに美しいバラードのシカゴも嫌いじゃないけど・・、初期名盤(Ⅰ~Ⅲ)のワイルドさ・反骨心の衝撃が多感な時代の脳裏に深く刻まれ体に染みついてしまったため、到底同じバンドだとは思えないのです。ロックにブラスを取り入れた先駆的な存在、社会矛盾を突いた反体制の姿勢を鮮明にして愛・自由を叫んでいた熱い血潮のワイルドな初期シカゴ・・、今回はデビュー盤(2枚組の大作)から数々の名曲を紹介し、ありし日の彼らの真髄(凝縮された情熱)を十分に堪能してもらいたいと思います。冒頭に紹介した名曲「流血の日」(someday)は1968年夏の民主党大会(シカゴ開催)で「ベトナム戦争反対」のデモ隊と警察・軍がぶつかり合う生々しいシーンから始まります。対峙していく両者の背景には重々しく迫力あるシカゴBGMが刻々と迫り、ブラス音が炸裂して曲は一挙に疾走を開始、クライマックスへと向かっていくのです。冒頭と中盤に響き渡る群衆のシュプレヒコール「The Whole World is Watching!」(世界がこの権力暴挙を見つめているぞ!)・・、この衝撃曲で強烈な感動を受けたRWは完全にシカゴに圧倒されてしまいました。ジェイムズ・ウィリアム・ガルシアをプロデューサーに迎えデビューを果たした1st盤「シカゴの軌跡」(1969)は壮大なるコンセプトアルバムの風格を讃えています。当時は「シカゴ・トランジット・オーソリティ」という長いグループ名で「俺たちはこんなバンドなんだぞ!」と自信に満ち溢れた自己紹介曲「イントロダクション」が冒頭を飾り、ヒット曲としても有名な「一体現実を把握している者はいるだろうか?」「ビギニングス」そして初期の最大ヒット曲「クエスッチョンズ67&68」へと繋がっていきます。まさにロバートラムの鋭い感性と曲作りの豊潤なセンスが冴えわたっています。そして初期シカゴのサウンドを牽引していたのが名ギタリストとして称賛されたテリー・キャスの迫力あるギターソロ(超名曲「長い夜」でも炸裂)、彼がいぶし銀のギターワークがブルージーに唸り奏でられる組曲「ポエム58」は実に見事!これこそ1969年ロックの究極の姿だ・・!そしてピーター・セテラのベースで始まり、テリー・キャスのギターが真骨頂を見せる「アイアムアマン」はアフロな雰囲気(サンタナ風)も濃厚に漂うブルースロックの長大名曲!ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンも唸らせたと言われるテリーキャスのギターワークは初期シカゴの象徴そのものでした。しかしそのテリー・キャスは1978年、突然、悲劇的な死を迎えてしまいました。交遊者パーティにおいて、彼が余興のノリで38口径リヴォルバーを友人に示しながら「銃弾は入っていないよ」とこめかみに当て引き金に指を掛けた途端に暴発してしまったのです。享年31歳、薬物・アルコール依存だったとも謂われますが、今になっては真相は闇の中・・。根幹メンバーを失ったシカゴは迷走状態に陥り、80年代AOR路線で復活するまでは苦境状態が続いたのです。今回記事のフィナーレは壮大なるブルースロックの真髄が満ち溢れているテリー・キャスの究極轟音プレイ「フリーフォームギター」で締めましょう。まさにジミヘンばりにギターを唸らせ続ける大迫力演奏には完全圧倒されてしまいます!AORで頂点を極めたシカゴもいつか掲載しようと思ってはいますが、まだまだ初期シカゴの魅力を継続紹介して皆様に堪能してもらいたい!次回は2nd名盤「シカゴと23の誓い」から「長い夜」をメインとしたレポートをお届する予定。

  # by rollingwest | 2002-06-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(130)

「My Favorite Songs」(第17巻)

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★(109):リンダ・ロンシュタット 「ブルーバイユー」 (1977 年) (2014.11.26公開)


c0119160_2055176.jpg1970年代中~後期にかけて絶頂を極めたウエストコーストサンド、これらバンド達の中心にいて数々のヒットナンバーを放っていた歌姫が「リンダ・ロンシュタット」でした。グラミー賞を複数回受賞し、世界アルバムセールスは1億枚以上・・、ラジオから流れてくるリンダの名曲はまさにRW青春時代のBGMでした。そんな彼女(68)が難病パーキンソン病に冒されており昨年夏に引退表明したことは大変残念なこと・・。デビューから30数年間ごく自然な形で音楽スタイルを次々に変えながら華やかな活動を続けてきた彼女の偉大な足跡をレビューしてみたいと思います。前編は1970年代初頭~1977年(名盤Simple Dreams)の頃までを、後編は1978年(名盤ミスアメリカ)~1990年代までをレポートとしましょう。リンダ・ロンシュタットは米国南部アリゾナ州に生まれたことから当初はカントリー系シンガーとしてデビューしています。ジョニーキャッシュやグレンキャンベルとも共演したこともあり、「ロング・ロングタイム」(1970)などの曲で評価を上げて行きました。1970年前半では何とあの「イーグルス」をバックバンドとして引き連れていたのですから今から思えば凄い事実ですネ~。彼らの代表曲「デスペラード」(1973) もリンダが美しい高音で歌いあげており、誉れ高い名曲に華やかな花が添えられています。しかしまだ当時、彼女の人気は世界にブレイクしておらず、開花した契機は「ピーター・アッシャー」(ジェームステイラーのマネージャー兼プロデューサー)との出会いからでした。彼がプロデュースした名盤「悪いあなた」(Heart Is Like A Wheel)(1974)は世界的に高い評価を受け、シングルカットされた「悪いあなた」(You're No Good)(1975)も一挙に全米No.1ヒットに輝いたのです。アルバムとシングルの原題曲はそれぞれ違うのに邦題は一緒にしちゃって・・、名付けた方は「悪いどなた?」、本当に紛らわしいレコード邦題なので混乱させられます・・。続くシングル「いつになったら愛されるのかしら」(When Will I Be Loved)(1975)も全米2位となり、いよいよ彼女の栄光時代が始まったのでした。リンダのレパートリーは殆どがカバー曲で占めらています。それもC&W、フォーク、ポップス、ロック、バラードデュオとジャンルは多種に渡っており、それら全てを吸収して新鮮な曲に生まれ変わらせる彼女の才能には唸らされるばかり・・。パワフルにロックンロールを歌いあげる「ヒートウェイブ」(1975)はマーサ&ザ・バンデラスのカバー曲・・、冒頭紹介曲「ブルー・バイユー」(1977) はしっとりと儚げに歌い上げるロイ・オービソン(1960年代)の初期ヒット曲でした。米国南部の故郷に残してきた恋人を想う詞をリンダの哀感が満ち溢れる歌唱・・、波間に漂うような曲調は実に味わい深いものがありますねエ・・。この名曲は、リンダロンシュタットが成熟・完成度を高め頂点に達したといわれる米国音楽史の名盤「Simple Dreams」に収められています。そして前編最後の締め曲は名盤からの大ヒット曲「イッツソーイージー」(1977)しかありませんね~!バディーホリーの名曲をカバーしたものですが、力強い演奏と一緒に野太い声で歌い上げられる小粋なロックンロールは、完全にリンダの代表曲として今も語り継がれておりウエストコーストサウンド象徴曲ともなっています。 大学時代のアパートのラジオから毎日のように流れていたなあ・・。当時「It's So Easy to Fall in Love」のRWは、失恋の痛手に打ちひしがれて「Never Gonna Fall in Love Again~泣」(エリックカルメン)の心境でしたが・・。(苦笑) 


⇒次回は、シカゴが最もワイルドで輝いていたブラスロック時代の反戦歌「流血の日」(1969)をお送りします。♪\(^◇^)/♪




★(108):エアサプライ 「オール・アウト・ラブ」 (1980年) (2014.11.13公開)


c0119160_2261870.jpg1980年代初頭「ペパーミントサウンド」と称され、当時席巻していたAORブームの旗手を担っていた「エアサプライ」!爽やかな海のイメージに彩られた数々のヒット曲を前・後編に渡って懐かしんでみたいと思います。前編は全米デビューでいきなり世界的ヒットとなった名盤「ロストインラブ」&2nd盤「シーサイドラブ」からの名曲の数々を紹介します。彼らはオーストラリアから登場したバラードナンバー中心のデュオで、グラハム・ラッセルの繊細な曲作りと、ラッセル・ヒッチコックの伸びのあるボーカルが日本でも大人気(とりわけ女子大生に大受け)でございました。邦題にはやたら「愛だの恋だの永遠だの」と青臭い題名が多く付けられており、口の悪い音楽評論家達は「オーストラリアのオフコース」などと憎まれ口を叩いていたもんだなあ・・(苦笑)。彼らを一挙に有名にした曲は1980年の「ロストインラブ」(最後に紹介)、いきなり全米チャートの第3位で登場して世界に羽ばたいたのです。次の「オール・アウト・ラブ」(1980冒頭曲)も第2位、そして第3弾「ときめきの愛を」(1980)が第5位と、全米デビューからいきなり3連続の大ヒットを飾って本当に目を丸くしたものです。デビュー盤「ロストインラブ」は、さらに「ハヴィング・ユー・ニア・ミー」(1980)などアコースティックでまろやかなPOPサウンド曲が満載!中年オヤジが青春真っ盛りの純愛歌を称賛するのは背中がムズ痒くなりますが、当時はまだ20歳前半だったので素晴らしいバラード曲の数々に一挙魅せられてしまいました。続く1981年発売の2ndアルバム「シーサイド・ラブ」(The One That You Love) (1981)の主題歌は彼らにとって唯一全米No.1シングルに輝き、日本の女子大生・OLに大人気となり海辺のドライブ用BGMとして定着していった感があります。彼らのイメージ・邦題は「海辺の愛」が定番、必ずしも夏や海を歌っているわけじゃないのに、80`sトレンドを反映した国内CDプロモーションの事務所戦略だったんでしょうねエ・・。この曲だって直訳すれば「貴女の愛したもの」でしょうが・・!どこがシーサイドラブなんじゃい?と反発心がフツフツ擡げてきたので、ユーチューブは敢えて海に関係ない映像を選択しました。(それも冬の季節に・・、悪しからず!苦笑)。この2nd盤からは他にも、「ヒア・アイ・アム」(1981)や「あなたのいない朝」(1981)が大ヒットしています。でもRWは2~3nd盤あたりになるともう耳触りのいい曲ばかりでもう食傷気味・・、当時席巻していたデビッドフォスター風のAOR曲(シカゴ、TOTO等)とゴッチャになり全て同じ音楽に聴こえて完全に飽きてしまいました。その後AORブームは鎮静化、80`sの華やかなサウンドも一区切りが着いて、最近は彼らの名を耳にすることは殆どありません。今や立派な前期高齢者となった両者ですが、美しいコーラスのハイトーンボイスで歌いあげているユーチューブ映像を見ると、2人はなかなかいい歳の重ね方をしているような雰囲気を感じます。エアサプライバージョンの「ウィズアウトユー」(1991)もなかなか素晴らしいですね~!ちなみにこの曲は数々のアーティストによってカバーされていますが、やはり小生が一番大好きなのは第6巻(052)で紹介した「二ルソン」バージョンです。そしてやはり前編のラスト曲を飾るのは世界に衝撃的デビューを飾った「ロストインラブ」(1980)で締めるしかありませんね。エアサプライを聴きながら彼女を隣席に乗せて海辺をドライブする憧れのシチュエーション、当時は北海道勤務での独身時代だったのでそんな場面もチビっとあったのですが、結局は長続きせず線香花火のように終わってしまいました。(まさにロストインラブ・・、青春時代の苦い思い出⇒泣)。後編(公開時期未定)は3rd盤「ナウ&フォーエバー」、そして1980年後半から現在に至るまでの活動状況をレポートする予定です。




★(107):シン・リジィ  「ヤツらは街へ」(The Boys Are Back In Town) (1976年) (2014.11.1公開)


c0119160_2125364.jpg誰にでもリアルタイム時代で聴き逃してしまった死角アーティストはあるものですが、70年代に活躍した「シン・リジィ」(アイルランド出身)は「未聴のお宝物のハードロックバンドだった!」と気付いたのはつい先日のことです。1970年代中盤当時は米国ヒットチャートばかり追いかけていた小生にとって彼らの名前は耳にするものの、パンクロック系のHR/HM「ハードロック・ヘヴィメタル」かなと位置付け「とりあえず自分の趣味対象ではないんだろうな・・」とぼんやり遠ざけていた感じでした。メタル系ギラギラバンドでとっつきにくい対象と思い込んでいましたが、最近洋楽ブログ仲間のRemyさんに紹介され試聴してみたところ目から鱗!「何と素晴らしい~、RW好みのサウンドではないか!」と一挙にお気に入り!メロディックなハードロックで本当に聴きやすく小生の琴線部にスッと入り込まれ大いに興味を持ち始めているところです。確かに当時の米国ヒットチャートに頻繁登場するバンドではなかったし、日本での人気も今一つ地味な印象だったのは事実でしたが、冒頭に紹介した「ヤツらは街へ」(The Boys Are Back In Town)(1976)はしっかり記憶に焼き付いています。間奏のメロディアスなツイン・リードギターが非常に印象的、当時FENラジオで毎日流れており「キャッチーでカッコいい曲だなあ・・」と大好きだったのですが、まさかこれが「シン・リジィ」の代表的なヒット曲だったとは全く認識しておらず、今更ながら嵌っている次第でございます。サミー・デイビイスJr.を怪しくしたような顔で、口をあまり開かずに歯だけを見せて歌う「フィル・ライノット」(vo,bs)を中心にアイルランドで結成され、「ウィスキー・イン・ザ・ジャー」(1972)がスマッシュヒットし国内や英国で1位を獲得したことが彼らの本格的な活躍の契機となりました。アイルランド・フォークとロックの融合を軸にしたツインリードギター編成でサイケデリックサウンドを展開、ケルトの香りも漂うアイリッシュでメロディックなハードロックを貫抜き通し彼ら独特な世界が展開されている気がします。このスタイルは1975年「ファイティング!」 で確立され、「ロザリー」(1975)のヒット曲も大人気となりいよいよ黄金期へと突入していきます。ツインリードギターといえば60年代の「ヤードバーズ」(ジェフベック&ジミーペイジ)や「ウィッシュボーンアッシュ」が有名ですが、英国では当分野を継承してきた伝統なるものがあるのかもしれない。1976年に名作「脱獄」(JAILBREAK)を発表し、上記紹介の「ヤツらは街へ」が大ヒットとなり、彼らはついに世界的なトップバンドとして認められたのです。70年代中盤の王道ハードロック不毛の時代にUFOと並んでブリティッシュ・ハード・ロックの牙城を守ったとも評価されています。「Bad Reputation」(1977)や「ブラックローズ」(1979)、そして日本でもヒットした「ヤツラはデンジャラス!!」(1979)も実にカッコいい!豪快なツインリードギターの煌めきとフィルのアイリッシュ漂うボーカルで伝統的なブリティッシュサウンドすが、不思議とアメリカを感じさせる部分もあります。「ボンジョヴィ」など後進の米国ハードロックバンド達からリスペクトを受けている所以もこの辺にあるのかも・・。「シン・リジィ」は80年代中盤に紆余曲折を経て解散してしまい、それを悲しむかの如くフィル・ライノットは36才の若さでこの世を去ってしまいました。しかし「Dedication」( 1991)は残ったメンバー達が彼の死を悼んで敬意を捧げた超名曲、フィルの死後もムリな展開が全くない豪快なハードロックや泣きのバラードが受け継がれています。しかしこのユーチューブ画像は本当にフィルが歌っているかのようだ!またこのバンドには、「パリの散歩道」(冬季五輪・羽生結弦BGM)で超メジャーになったゲイリームーアもかつては在籍していました。ロック史を代表する歴史的な名バンドだったのですねエ・・。最後はフィルのヴォーカルとギターソロが素晴らしい 「それでも君を」(still in love with you)(1974)を紹介してこの記事を締めたいと思います。独特の世界観を持つ哀愁漂う素晴らしい美曲(ゲイリームーアと競演)です。「これを聴かずしてシンリジィを語るなかれ!」とコアなファンから絶賛されている泣きのロックバラード!


★(106):ヴィグラス&オズボーン 「秋はひとりぼっち」 (1972年) (2014.10.20公開)


c0119160_155199.jpg秋が日々深る今日この頃、今年秋の訪れが例年より早く、素晴らしい紅葉を長く楽しめそうな気がしております。今回はマイナー(主に70年代一発屋的なアーティストを中心)でありながら、センチメンタルを深く感じさせる秋の名曲を沢山紹介(初の季節特集)したいと思います。70年代後半以降に洋楽に目覚めた方々にとっては初めて聴く曲が多いかもしれません。逆にリアルタイムで聴いた人にとっては懐かしい気持ちでフラッシュバックするのではないかと思っております。冒頭の「ヴィグラス&オズボーン」(英国フォークデュオ)の「秋はひとりぼっち」(1976)はまさにこの哀愁曲だけの一発屋でした。それも母国では全く受けなかったものの、日本だけで支持され洋楽チャートで2位まで上がる大ヒットを記録しています。やはり秋の深まりを思わせるメロディーとアレンジ、そして二人の甘いヴォーカルが日本人好みだったのでしょう。秋の名曲といえばやはり「イングランドダン&ジョンフォードコーリー」の「秋風の恋」(1972)を取り上げない訳にはいきません。誰もが認める定番曲(今回記事では最もメジャーかも)は全米チャート第2位に輝く70年代の代表曲です。「ブレッド」の「オーブレー」(1973)・・、アコースティック・ギターと優雅なオーケストラをバックに淡々と静かに歌われゆくデビットゲイツの甘く切ない美しいメロディーの佳曲、小生はこの曲を聴くといつも心が安らぎます。イングランドダン&ジョンフォードコリーとブレッドは、RWの超お気に入りアーティストなのでこれからも何度も記事を紹介しようと思っておりますのでお楽しみに~!「ロボ」の「片思いと僕」(1972)は深夜放送ラジオで流れていた切なく美しいメロディ!これほど邦題と曲のイメージがピッタシなのも珍しいかもしれません。ロボの本名ローランド・ケント・ラヴォアということを今回初めて知りました。1971年「僕と君のブー」でスマッシュ・ヒットに続いて大ヒットしたこの曲は草食系・純情男子の心情を歌った素朴なフォーク・ソングでしたネ~。remyさんからご提案頂いた「アバ」の「落ち葉のメロディー」(1974)と、めったPOPS様よりご推奨の「オリビアニュートンジョン」の「秋風のバラード」(1975)も追加いたしました。思い出させてくれてありがとう~!ソフトAORがブームになっていた80年代初頭、ロサンゼルスの6人組バンド「スニーカー」が1曲だけ放ったスマッシュヒットは「想い出のスニーカー」(1981)で特に日本に特化して人気を得た曲でした。今や完全な無名バンドですが、70年代ウェストコーストロック(スティーリーダン、イーグルス、ドゥービーズ)の後継者として当時は大きく期待されていたらしい。トーケンズの「ライオンは寝ている」をカヴァーヒット(1971年全米3位)させた「ロバート・ジョン」(NY白人シンガー)の「恋するウーマン(サッドアイズ)」(1979)は、7年間低迷後の中で久々にヒットを放ったカムバック曲、毎日のようにこのハイトーンボイスをFENラジオで聴いていたものだ・・。小生を洋楽に導いてくれたサイモン&ガーファンクル・・、数々のメジャーヒット曲がありますが「旧友」(1968)の名作アルバム「ブックエンド」より)は地味な曲ながらも哀愁漂わせるサウンドはストリングスがなんとも言えない雰囲気で落ち葉が舞う秋にピッタリの曲ではないでしょうか。晩秋の公園ベンチで孤独な思い出に生きる老人を表現しており、友人同士が公園のベンチにブックエンドのように座る光景がアルバム名に表現されています。そして最後は、秋の定番名曲として誉れ高い「アルバート・ハモンド」の「落ち葉のコンチェルト」(1972)、超有名曲の「カリフォルニアの青い空」の次に連続ヒットしたこの曲でアルバートハモンドの名を洋楽ファンに完全知らしめることになりました。木々からこぼれる葉々はそれぞれに舞い散っていき・・・、まるで協奏曲(コンンチェルト)を奏でているようです。スマッシュヒット一発屋さんや隠れた名曲は、これからも季節や個々の題材をテーマにした特集として時たま紹介して行きたいと思います。それでは皆様、落葉の音を聴きながらよき秋を満喫下さい。

  # by rollingwest | 2002-05-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(120)

RW/洋楽コーナー:「My Favorite Songs」 (第16巻)

【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから

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★(105):ニッティ・グリティ・ダートバンド 「ミスター・ボージャングルズ」 (1970年) (2014.10.8公開)


c0119160_22242672.jpg1970年代カントリーロック分野で我々世代の心に残っている「ニッティ・グリティ・ダートバンド」の最大ヒット曲「ミスター・ボージャングルズ」を紹介いたしましょう。それにしても彼らのグループ名は実に長ったらしい・・(以降は「NGDB」と表記)、直訳すると「愚直で埃だらけの汚らしいバンド」となります。何か自虐的な名称にも見えますが、その精神には「自分たちはあくまで洗練されることなく、泥臭いカントリーを地道にやっていくぞ・・」みたいな主張があるように思えます。今や、彼らの名を知る人は殆どいませんが、「Bayou Jubilee」「You Made Life Good Again」などを聴いてみるとこのグループはまさに初期イーグルスの雰囲気(Take It Easy 等)とそっくり!カントリー系ロックバンドとして後続登場したイーグルズの方はその後本格的なロック・壮大バラード路線に転身して米国を代表するビッグな存在となりましたが、片や「NGDB」の方は1966年結成から現在に至るまで一貫して(バンド名の通り)地道に泥臭くカントリーだけを演奏し続けてきたベテランバンドなのです。商業的成功には殆ど縁が薄い存在ですが、意外にも彼らはオールマンブラザーズやジャクソンブラウン、ケニーロギンス等とも縁があり、カントリー界とロックを結ぶ架け橋的な存在として高い評価を得てきました。1967年「Nitty Gritty Dirt Band」でアルバムデビューした時はフォーク&カントリーの異端児として話題をさらいましたが、その後泣かず飛ばずとなり1969年にはついに一度解散してしまいます。しかし、1970年新たなメンバーで再結成し、5thアルバム「アンクルチャーリーと愛犬テディ」の名盤と、全米シングル9位を記録した大ヒット曲(上記掲載)「ミスター・ボージャングルズ」を引っ提げてロック界にカムバックしたのです。ほのぼのとさせる哀愁漂う渋い名曲は米国カントリー歌手ジェリー・ジェフウォーカーのオリジナル曲(1968)をカバーしたものですが、RWとしては「NGDB」の代表曲という印象が強いですね~!また同アルバムからは ケニーロギンズ(無名時代)が何曲か提供しており、その中からヒットした「プー横丁の家」(1970)も思い出深い曲・・。このアルバムはプラチナディスクに輝き、グラミー賞の2部門にノミネートされるなど一躍彼らはビッグスターの仲間入りを果たしたのです。続いて彼らが挑んだのはナッシュヴィルでカントリースター達と共演したアルバムを制作することでした。デビューした当時はカントリー界からは白い目で見られていた「NGDB」でしたが、彼らのカントリー音楽に対する造詣の深さと敬愛の念は認められ、初の大がかりなロックとカントリーの共演が実現しました。ロックバンドがカントリーの聖地ナッシュヴィルで録音したり、カントリースターと共演することは実に異例のことで、その模様は歴史的名盤「永遠の絆」(何と3枚組)として発表、その中には「グランドオール・オープリーソング」などの名曲が収められています。彼らが演奏する音楽はまさに伝統的庶民派カントリーロックスタイル!バンジョー、マンドリン、アコーディオン、アコギ、ハーモニカがメインで鳴り響かせる作品が多く、「Long Hard Road」(アメリカ開拓史の映像が叙情的)や、「Fishing In The Dark」など、一曲一曲が個性的で古き良き時代のアメリカを感じさせてくれます。70年代後半に入るとさすがに時代の変化を感じ取り、「ダートバンド」と改名して一時ポップな方向性を打ち出しますが長くは続かず、1980年代に入ると再びバンド名を「ニッティ・グリティ・ダートバンド」に戻しました。やはり「One Good Love」(白黒映像が格好いいカントリーロックの真髄)みたいな曲で路線をぶらさずに一貫して継続することで歴史的価値が深まっていくことの表れかもしれません。現在はカントリーバンドとして安定した活動を続け息の長い存在となっていますが、RW洋楽コーナーはロック・POPS記事なのでLAST曲は彼らがリンダロンシュタッドと共演した「アメリカンドリーム」(1979年、全米第13位のヒット曲)で締めくくりとしたいと思います。

⇒次回は、1972年の懐かしい秋を象徴する名曲ヴィグラス&オズボーン「秋は一人ぼっち」をお送りします。♪\(^◇^)/♪




★(104):グランドファンクレイルロード 「アメリカンバンド」 (1973年)  (2011.9.25公開)


c0119160_13395742.jpg1970年は小生が洋楽ロックの魅力に憑りつかれた記念すべき年、そして翌1971年は日本の洋楽ロックファンにとっては、大物アーティスト(BBキング・BS&T・シカゴ・CCR・エルトンジョン・レッドツェッペリン・EL&P・ピンクフロイド・フリー・GFR等)が次々に初来日を果たした画期的な年となりました。今でこそ洋楽ロック映像や生演奏に触れられる機会は当たり前のことですが、昔は夢のような出来事だった時代、1年間でこれだけのビッグネームが一挙初お目見えした1971年はまさに特筆される衝撃イヤーだったのです。当時RWは中学2年生・・、LIVE上京の実現などあり得るはずもなく、音楽雑誌「ミュージックライフ誌」を毎月買い込んで来日記事の詳細を読みながら興奮していたものです。その中でも伝説的なコンサートとして今でも語り継がれているのが「グランドファンクレイルロード」(以下GFRと呼称)が雷雨の中で行った「後楽園球場」(東京ドームの前身)LIVEでした。当時の大物コンサート会場は武道館が定番でしたが球場で行われるのは初めてのこと、当時「世界一デカい音を出すバンド」といわれたGFRの初来日公演は大きな話題となったのです。当日は会場に入れなかった多数の若者が暴徒化して放火・投石の末、場内乱入する大荒れ状態となりました。そんな異様な雰囲気が頂点に達してさらに突然の閃光と轟く雷鳴、いよいよ豪雨の中でGFRが登場し、「ハートブレイカー」をついに歌い上げた・・こんなLIVE記事をRWは食い入るように読み漁り、疑似体験の様な興奮と自己満足感を覚えたものです。1969年にドンブリューワー (ds)とマークファーナー(vo、g)とメルサッチャー(b)の3人で結成され、バンド名は米国鉄道会社「Grand Trunk Western Railroad 」を文字って名付けられたとのことです。レッドツェッペリンの米国公演の前座を務めた時、その凄まじい歌と演奏力で聴衆を熱狂させたことが話題となりロックファンにその名を轟かすようになりました。デビュー盤「On Time」(1969)からは上記掲載した哀愁たっぷりのハードロックバ ラード「ハートブレイカー」が輩出、2nd「Grand Funk」からはgwan・gwan~と歪めたギターが迫るヘヴィなナンバー「パラノイド」(1969)、アニマルズの名曲「孤独の叫び」(Inside Looking Out)(1969)はテンポを落としGFR流のヘヴィなロックになっておりインパクトが強い彼らの代表曲ともなりました。「サバイバル」(1971)は3人が原始人に扮したLPジャケットで小生の脳裏に強く印象が残っており、デイヴメイスンのファンキー曲「フィーリン・オールライト」やストーンズ代表曲「ギミーシェルター」をカバーしています。当時のロックは反戦姿勢も強く打ち出されておりGFRも「戦争をやめよう」(1971)で大いにPRしていました。ただし当時のRWは英国プログレシッブロックに嵌っていたので、ストレートで無骨なアメリカンハードロックが今一つ後進的な音楽に感じられて距離感を置いていたのも事実でした。しかし冒頭曲「アメリカンバンド」(1973)は、メロディも詞もシンプルで力強く一度聴いたら忘れないハードロックの名曲だと大いにお気に入りとなりました。さらに「ロコモーション」(1974)はハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ大ヒット曲となり見事全米1位に輝いています。2度目の大ブレイクの功労者は名プロデュースで自身も多彩な才能を発揮したトッドラングレンであることは有名ですね。1970年代中盤からは米国プログレハードが人気主流となって、GFRも2度の解散と再結成を重ねる紆余曲折もありました。しかしアメリカンロックの醍醐味はブルース・スプリングスティーン等に受け継がれ見事に米国ロックの主流となっています。小生も年齢を重ねるにつれて、新しいことなど何もなくひたすら愚直に「ロックの原点」を追求するこの姿勢が噛みスルメの味わいのように思えてきました。GFRが築き上げた功績や誇りは、「我々はアメリカンロックの王道を突き進んできたバンドだ~!」という魂の叫びが冒頭掲載曲に籠っているような気がします。締めは「アメリカンバン」の次にヒットした曲「ウォーク・ライクアマン」(1973)で・・




★(103):ラーセンフェイントンバンド 「今夜はきまぐれ」 (1980年) (2014.9.13公開)


c0119160_22473511.jpg80年代洋楽はソフト路線AORの他に、ジャズ・ソウルとロックを融合した「フュージョン音楽」(クロスオーバーとも呼称)が華やかりし時代でした。ボーカルが入っていたらAOR、インストルメンタルだけだったらフュージョンなんて・・適当なジャンル分けをしていた感じだったかもしれない。(笑) お洒落で都会的な雰囲気など到底似合わないRWも、当時は無理してラリーカールトン、リーリトナー、ジョーサンプルなどのアーティストを聴いていましたが今一つ夢中にはなれなかったなあ・・。そんな中で、「ニールラーセン」(Key.)と「バジーフェイトン」(Gt,Vo.)という2人のテクニシャンアーティストが結成した「ラーセンフェイトンバンド」は小生お気に入りのスーパーユニット。フュージョン風味の小粋なAORという感じでとにかくカッコイイ!当時はかなり嵌っていましたねえ・・。冒頭紹介の「今夜はきまぐれ」(Who’ll Be the Fool Tonight)は、米国ヒットチャート上位に入った名曲(ブラスとギターの切れ味、ドラム・パーカッションのリズムが見事にMIX)で、彼らのポップでキャッチーなサウンドを聴き一遍に魅了されてしまいました。この名曲が収録されていた1stアルバム「Larsen-Feiten Band」は、1980年当時のAOR・フュージョン名盤として頻繁に採り上げられていた気がします。このデビュー盤には名曲がズラリ!「メイクイット」はホーンの響きとアレンジが秀逸、ダンサブルなナンバーでディスコ(←死語かも?今はクラブかな)で流れてきたら違和感なく踊り出しそうな雰囲気。「デインジャーゾーン」はロック色の強い唸るようなギターが印象的で渋い曲調の運び。「彼女はフリー」(She's Not In Love)はパーカッションが効果的に使われる軽快な雰囲気、サビ部分の切れ良く透明感あるギターカッティングが素晴らしく個人的にもお気に入りの曲です。1982年発表の2ndアルバム「フルムーン」は衝撃的名作(1972)を残した伝説バンドの名前を冠しています。フルムーンというバンドは1970年代初頭にブルーアイドソウルを取り入れ先進的に取り組んでいましたが1980年前後で当該音楽が大きなブームを呼び彼らが再評価されました。その流れを受けてリリースされた名盤「フルムーン」には「ファントム・オブ・フットライツ」「リトルシスター」などの名曲が収められ、洗練されたブルーアイドソウルバンドとして復活を遂げ脚光を浴びたのです。職人気質に溢れPOP&ファンキーかつアダルトな感で高い演奏力を見せた名コンビ、彼らはフュージョン時代の金字塔ともいえる完成度の高い2つの名盤を生み出していたのです。最後は2nd盤からのお気に入り曲「ブラウンアイズ」を聴きながら、30数年過ぎても全く色褪せないAOR・フュージョンの傑作を堪能してみませんか!





★(102):グレンキャンベル 「ラインストーン・カウボーイ」 (1975年) (2014.8.31公開)


c0119160_20232292.jpgグレン・キャンベルは母国アメリカでは一時代を築いたカントリーPOPS歌手(1936年生まれ・もう80歳に近いか・・)ですが、日本では殆ど無名に近いアーティストかもしれません。日本でグレン・キャンベルが一般の方に注目されたのは、40年程前のコカ・コーラCM曲「カミングホーム」(1975)が使われた時ですが、覚えている人も少ないでしょうねエ・・。RWは彼がヒットさせた数々の曲(1960年終盤から10年間)には癒されて結構大好きだった歌手なので今も心に残っております。彼の音楽キャリアの集大成となったのが、上記に掲載した「ラインストーン・カウボーイ」(1975)でしょう。 「♪Like a Rhinestone Cowboy~!チャンチャン!♪ Riding out on a horse in a star-spangled rodeo~♪」 軽快リズムの中で、豪快かつ伸びやかに「ロォ~デオ~!」と熱唱する声は心を揺り動かされるサビ部分、実に爽快感溢れる名曲でした。彼が音楽界でスターだった時期は1967年から1970年代後半までの10年間位でしたが、カントリーとPOPSの垣根を取り払った功績はかなり大きいと言えるでしょう。グレン・キャンベルは米国・片田舎の貧しい小作農家で12人兄弟の7番目として生まれましたが、幼少時期から音楽才能に恵まれカントリー歌手への夢を膨らませていました。彼の成功道のりは決して平坦ではなく最初はロサンゼルスの音楽業界周辺をうろついていましたが、やがてギタリストの腕前を見込まれセッションミュージシャン(ギタリスト)として有名歌手達のレコーディングに参加していくようになります。実は彼は一時的にビーチボーイズの一員だったことがあるのです。 同バンド主力だったブライアンウィルソンがツアー活動から退いたことが契機、スタジオ録音で認められたグレンキャンベルに白羽の矢が立ったのです。数カ月間は代役としてビーチボーイズの面々とツアーを共にしたものの、残念ながらツアー合間の休暇中で怪我をしてしまい已む無く降板した経緯があります。グレンキャンベルがソロ歌手として最初の成功を掴んだのは1967年に「ジェントル・オンマイマインド」のヒットに恵まれたことでしょう。さらに「恋はフェニックス」等のジミー・ウェブ作品を歌うことで、カントリー音楽ファン以外のリスナーにもファンが増えて支持が拡大していきました。この曲は見事グラミー賞(ベスト男性ヴォーカル賞)に輝き、今やアダルト音楽のスタンダードかもしれませんね。「ガルベストン」(1969)はテキサス州ヒューストン近郊町を歌ったもので、よきアメリカの情緒を感じさせる得意分野のカントリー調名曲です。1970年代に入っても「Try A Little Kindness」(1970)や「ラインストーン・カウボーイ」のヒットを放ち続け、この10年間は彼が最も輝いた栄光時代でした。しかし、人気が上がればいつかは落ち目の時期が到来するもの・・。70年代後半から80年代においては、大衆音楽の好みも大きく変わり(ディスコサウンドや都会的音楽が流行)、古臭い哀愁調のカントリー音楽の支持層は激減となり彼の人気も陰りを深めていきました。さらに私生活では、酒とドラッグに溺れて離婚3回など混迷の転落人生を辿ってしまったのです。彼の自伝には、成功から栄光に至った10年間、その後転落の日々(酒・ドラッグ)から立ち直るための戦いや信仰に目覚めた歴史が綴られているとのこと。晩年を迎え、彼は75歳で歌手人生最後のアルバムを発表しました。まだまだ頑張ってもらいたいものですが、実は彼はアルツハイマー病の初期段階にあると知ってビックリしました。少しずつ記憶が失われてゆく不治の病に侵され、やがて歌手能力も奪われていく前に最後のスタジオ録音に踏み切り、自分の元気な声とギター音色を刻み付けておきたいという願いを叶えたのです。ラスト曲は、小生が貧乏学生時代に毎日下宿のラジオから流れて来ていた「サザンナイツ」(1977)を紹介したいと思います。「南半球避暑地のビーチで星空に輝く夜空を見上げながら美女と愛を語らう・・(羨)、四畳半でカップラーメンを啜っていたRWとは何という違いだろう・・」と、何もいいことがなかった青春時代で心を癒してくれたグレンキャンベルの音楽・・。彼の波乱万丈の人生が静かに全うできることを祈念して本記事の筆を置きたいと思います。





★(101):ハート 「バラクーダ」 (1977年) (2014.8.18公開)


c0119160_625437.jpg皆さん、イチローがかつて所属したマリナーズ本拠地の「シアトル」(ワシントン州・最大都市)と謂えば何を連想されますでしょうか?実はボーイング(航空・宇宙産業の中核)・マイクロソフト(ビルゲイツ創業IT最大手)・アマゾン(ネット販売の最大手)・スターバックス(コーヒー)等、世界的な超有名企業の発祥地。そしてロック史においては、60年代に史上最高のロックギタリストと賞賛されたジミ・ヘンドリックス、90年代のオルタナティヴロックで世界を席巻したニルヴァーナなどの出身地でもあります。そして70~80年代では、沢山のヒット曲を当時放ち続けていた美人姉妹(アンウィルソン&ナンシーウィルソン)率いるロックバンド「ハート」を輩出していたのでありました。大学生の頃、貧乏下宿(四畳半)のラジオから小生のハートをズキュンと打ち抜いた小気味いいギターサウンドとハイトーンヴォイスが迫る「バラクーダ」を筆頭に、70年代でリリースされた名曲の数々も一緒に紹介いたしましょう。彼らの人気は70年代後半と80年代後半と2回のピークがありヒット曲数が半端なく多いので、前・後編に分けた記事にしたいと思います。「ハート」は元々アーミーと言うカナダのバンドが母体でシアトルで活動中にアン・ウィルソン(姉)をスカウト、その後妹のナンシーも巻き込んで1975年に正式結成されました。彼女らを全面に押し出したプロモーションを行い(アンはボーカル、ナンシーはリードギター)、1976年に1st盤「ドリームボート・アニー」(夢見るアニー)でデビューしました。デビューシングルは「クレイジー・オン・ユー」、イントロのアコースティックギター(ナンシー)から静かに始まり、突然洗練された軽快ロックに変調していく曲の構成が実にカッコイイ!「夢見るアニー」は勿論アンの愛称、このアルバムは大ヒット(全米7位)となり最高傑作とも称えられておりアン&ナンシーは世界デビューの夢をいきなり叶えてしまったのです。1977年には2ndアルバム「リトルクイーン」を発表して冒頭掲載の「バラクーダ」が全米11位のヒットを記録、さらにビートの効いたロック「Kick It Out」(1977)や「ストレイトオン」(1978)など全米チャート上位を常に賑わす実力を発揮し彼女らの人気は揺るぎないものとなりました。妹のナンシーのセクシーさと胸の谷間が目を引き(中年オヤジ表現だネ~)、「シスターズロック」と呼称されたことからビジュアル優先で人気を博してきたのかと思いきや・・、じっくり聴くとレッドツェッペリンを意識しており音楽の幅が結構広いなあ・・とその実力に感心させられます。アンウィルソンのハイトーンボーカルを聴くとまさに女ロバート・プラントと名付けたいくらいだ!またアコースティック・ギターも駆使する名曲が多い点もツェッペリン影響の一端を感じさせます。抒情的に歌い上げた「ドッグ&バタフライ」(1979)も大好きだったなあ・・。1970年代はシアトル美人姉妹として有名だったハートでしたが、今では姉のアンが激太りでかつての美貌は見る影もなくハートブレイク溜息(破・嗚呼~と・・)が出るばかり・・。ユーチューブはやはり心ときめいた時代の映像ばかりをチョイスしてしまいました。クリストファークロス、エルトンジョンに続き、イメージ映像にばかり拘る修業足らずのRWですが、やはり前編最後はデビュー期の最大ヒット曲「マジックマン」(1976:全米9位)で締めたいと思います。こりゃ、またカッコいい曲なんだな~!途中に迫力のドラマーソロも入り8分近くに及ぶナンバー、これこそ70年代ハートの真骨頂のイメージ!

  # by rollingwest | 2002-04-01 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(118)