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スティーリーダン(前編)




★(086):スティーリーダン 「リキの電話番号」 (1974年) (2014.2.13公開)


スティーリーダン(前編)_c0119160_08255774.jpg70年代にジャズ(フュージョン)とロックを合体させ都会的でセンス溢れる大人の音楽(クロス・オーヴァー)で我々を魅了してくれた「スティーリーダン」の名曲を前・後編に分けて紹介したいと思います。 小生が彼らの存在を初めて知ったのは「リーリン・インジ・イヤーズ」(1973)をラジオで耳にした時からです。最初はスティーリーダンというソロ歌手名だとばかり思っていましたが、ドナルド・フェイゲン(Key,Vo)とウォルター・ベッカー(Bass,Vo)を中心とする質の高いミュージシャン達が入れ替わり集まり散じたグループだったのか・・と認識したのは数年後のこと。スティーリーダンの結成は1967年、ニューヨークの大学で上記2人(元々ジャズの大ファン)が意気投合しソングライター活動を始めました。結局歌い手が見つからず自らで演奏活動をしていましたが、プロデューサーのゲーリー・カッツに見染めらてここから彼らの栄光史が本格的にスタートします。G.カッツはレコード会社契約後、ジェフ・バクスター(のちにドゥービーズの主力メンバー)らの有力メンバーを加入させ1972年デビューアルバム「Can't Buy A Thrill」を発表、最初のシングル「ドゥイットアゲイン」(1973)のヒットで一躍その名は全米に知られるようになりました。デビュー曲は何かサンタナを思わせるような怪しいリズムが魅力的ですが、その後は「マイ・オールド・スクール」(1973)や最大ヒットシングル(全米3位)となった「リキの電話番号」(上記曲1974)等の洗練された音楽が知れ渡りスティーリーダンの名声はますます高まることになったのです。しかしこの頃はすでにバンド形態は崩壊寸前、ドナルドフェイゲンとGカッツは一流セッションマンをレコーディングに多数起用し録音とライブ演奏を別物構築するスタイルに変えていったため、志向異なるメンバーはライブをしない活動形態に嫌気がさして次々と離れていきました。その中の一人は後期ドゥービー・ブラザーズを支えたジェフバクスター、彼はファンキーで泥臭かったドゥービーサウンドを一挙にスティーリーダン風(ジャズ系なお洒落な雰囲気)に変えてしまったのです。スティーリーダン存続危機も噂されましたが、ライブ活動から解放された2人はじっくりとスタジオワークに専念し、真の実力を発揮し始めたのは何とこれ以降の時代なのです。「ブラック・フライディ」を冒頭曲とする4thアルバム「うそつきケイティ」(1975年)、さらに「トルコ帽もないのに」(the fez)を収録した5 th「幻想の摩天楼」からは「滅びゆく英雄」(Kid Charlemagne)(1976年)・・、一流ミュージシャンを適材適所に配置した名盤を連続リリースしてさらに評価は高まり、彼らの方法論が正しかったことを強力にアピールしました。そして1977年、ついに金字塔アルバムと誉れ高い「彩(エイジャ)」を発表、瞬く間に彼ら初のプラチナ・レコードとなり1年もの間チャートに居座り続けることとなる程の大ヒットを記録したのです。ロック・ミュージックにおける洗練の極みを確立したクオリティの高さから、やがて彼らは「究極のミュージシャンズ・ミュージシャン」と呼ばれるようにもなりました。後編記事は「彩 (エイジャ)」や「ガウチョ」 からの名曲を紹介する予定です。




  by rollingwest | 2002-11-01 00:32

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