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「My Favorite Songs」(第48巻)



【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから

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★(215)ビージーズ 「マサチューセッツ」  (1967年) (2019.5.8公開)



■懐かしのビージーズ特集(前・中・後編)がスタート!
「My Favorite Songs」(第48巻)_c0119160_19471145.jpg新時代の令和を迎えましたが、洋楽記事交流もあらためてお付き合いよろしくお願いいたします。今回は1960年代後期(コテコテの昭和高度成長期時代)にデビューした「ビージーズ」の特集をスタートさせたいと思います。RWが洋楽に嵌ったのは中学1年(1969~1970年)で今から丁度50年前、ビートルズの解散時期でした。最初に夢中になったアルバム購入(1970)はビートルズ、S&G、エルトンジョン、シカゴ、そして翌年公開された映画「小さな恋のメロディ」のサントラ盤でした。清純なる思い出名画のBGMを歌い上げていたビージーズも洋楽興味に導いてくれた恩人グループにも関わらず、第4巻(036)「若葉のころ」(1969)でサラリと紹介しただけだったと気付いて大いに反省しています。この記念すべき50年の節目慶事にあたり、彼らの名曲特集を3編シリーズに纏めて紹介します。まず前編は1960年代の美しきメロディを奏でていたビージーズ初期ナンバーを10数曲紹介!冒頭掲載した「マサチューセッツ」(1967)は彼らの初期代表曲(全米11位)で日本でも初めて大ヒットした記念すべきシングル盤!彼らの世界的人気はまずこの名曲で本格化したのです。

■1967年オーストラリアからデビュー、英国帰国後に世界的な人気獲得!
ビージーズの歴史は1940年代に長男バリー、双子弟(二卵性)ロビンとモーリスが英領マン島の首都ダグラスで生まれたことに始まります。音楽一家に生まれたギブ兄弟は父の故郷マンチェスター在住時代でバンド活動を開始しましたが、その後一家は1958年オースラリアのブリスベンに移住して1963年ビージーズ(名前は長男バリーのイニシャルBGに由来)としてレコードデビューしました。1967年に「スピックス&スペックス」が全豪NO.1ヒットとなりオーストラリアの国民的人気を得る大ブレイクを果たしたのです。この曲は映画「小さな恋のメロディ」のBGMにも採用されていたので聴いたことがある方も多いことでしょう。英国に帰国したギブ兄弟は、5人編成のビージーズを立ち上げ1967年「ニューヨーク炭鉱の悲劇」で英米レコード界にデビューしました。次のシングルは「ラヴ・サムバディ」、日本でのデビューシングルであり、この曲も映画「小さな恋のメロディ」BGMに採用されていました。この年はビージーズ初期の佳曲が続々と生まれました。数々のアーティストもカバー曲に採用した「ワールド」「誰も見えない」などの名曲を若き3兄弟が美しくドラマティックに歌いあげています。

■1968~1969年、5人組から兄弟3人組へ
1968年には黄金初期時代を代表する名曲「ワーズ」が大ヒット、結成時メンバー5人組の最終作となった3rd盤「Idea」は60年代の集大成とも謂われ、初の全米TOP10入りした「獄中の手紙」(ギブ三兄弟のリフレインハーモニーが見事なドラマチック曲)や、ロビンが歌う「ジョーク」などの名曲を輩出しました。美しいコーラスやストリングス・アレンジが注目されがちですが、当時のビージーズはバンドとしての確かな力量を持っていました。メロトロンやピアノ、ハープシコード等を器用にこなすロビン、力強いモーリスのベースなど演奏者としての技量もなかなかのものです。1969年、4th盤「オデッサ」(「若葉のころ」が収録)からのシングル「トゥモロウ・トゥモロウ」「想い出を胸に」の頃になるとグループはメンバー脱退などで空中分解状態になってしまいました。しかし1970年に入りバリー、ロビン、モーリスの3人は結束していこうと決意を固め新生ビージーズとして再出発することを誓ったのです。

■ビージーズの公式ドキュメンタリー映画が制作中
ビージーズの結成・活躍から半世紀の歳月が過ぎ、今年2月彼ら初の公式ドキュメンタリー映画制作の発表がありました。バリー・ギブ&故人となった兄弟(ロビン&モーリス)の親族公認の映画で、監督は「ジュラシック・ワールド」を手がけたフランク・マーシャルが務めるとのこと。ビー・ジーズの全アーカイブを元に独創的音楽の制作秘話や映像などが満載、グループの歴史や個々のメンバーの人物像を掘り下げながら、非凡な才能を持った3人の兄弟の驚くべき関係性が明らかとなるとのことで、今から大いに楽しみにしているところです。前編LAST曲は冒頭で紹介した「マサチューセッツ」とともに日本でも大ヒッしたト美曲「ホリデイ」で締めることと致しましょう。この曲はザ・タイガース「花の首飾り」誕生の伏線曲とも謂われており、初期ビージーズでRWのお気に入り名曲の一つです。次回・中編は映画「小さな恋のメロディ」~70年代変革期へのステップ時代をレポートしたいと思います。



⇒次回は、ホワイト・レゲエと呼ばれた斬新なロックを奏でた英国バンド「ポリス」の名曲「孤独のメッセージ」(Message In A Bottle)(1979)をお送りします。♪\(^◇^)/♪




★(214)スレイド 「クレイジー・ママ」 (1972年) (2019.4.19公開)



■1970年代前半、グラムロックに位置づけられたオチャラケロックバンド「スレイド」
「My Favorite Songs」(第48巻)_c0119160_16402988.jpg1970年代前半に活躍したB級グラムロックの英国バンド「スレイド」の名前を皆さんは覚えておられますでしょうか?初めて彼らの歌を聴いたのは「グッッドバイ・T'ジェーン」(1972)が深夜ラジオから流れてきた時でした。グラムロック最盛期で大人気だったのはT-REXやデビッド・ボウイであり、スレイドは日本ではややマイナーな存在でしたが、本場英国においてはスイートやスージー・クアトロと並ぶ有名バンドでした。音楽性は二の次・・、とにかく分かり易い単純ロック、派手すぎるヴィジュアル優先のオチャラケバンドでした。やはりその強烈な印象は、おかっぱ頭ロングヘアーのデイヴ・ヒル(Gt)!ド派手のキンキラ衣装にハイヒール、出っ歯むき出しにして飛んだり跳ねたり弾け廻っている姿はバンドのシンボル的存在!「こいつはB級キワモノ感に徹しているなあ・・」と感心するくらいのパフォーマンスパワーでした。冒頭曲「クレイージー・ママ」などのストレートな単純ロックでしたが、ラジオから流れるヒット曲の数々に耳を傾けたものです。1970年代一時失速しましたが80年度にはまた復活、2000年代でも再結成してなかなかしぶとく生き抜いている4人編成のバンド「スレイド」を特集してみたいと思います。


■1971年ブレイク、黄金時代の4年間(~1974)
1966年結成ですが4年間鳴かず飛ばず、1970年から元アニマルズメンバーからのアドバイスも受けてド派手な阿呆ヴィジュアル路線に変更・分かりやすい豪快ロックに的を絞ったところ、71年のシングル「だから君が好き」(Coz I Luv You)が何と英国1位を獲得、続く「Take Me Bak' Ome」(1972)もヒットしました。ライブ・パフォーマンスに対する評価が上がり、1972年発表の「スレイド・アライブ」と「スレイド?(Slayed?)」「スレイデスト」も1位を獲得して完全にしてついに商業的成功を収めたのです。ヴィジュアル面での奇抜さもドンドン過激になっていき、ノディ・ホルダー(Vo)のかすれた高い声はなかなかワイルドで10代の少年少女たちから熱い支持を受けながらヒット・バンドへとのし上がっていきました。1973年の「カモン・ザ・フィール・ザ・ノイズ」(LASTで紹介)や「スクイーズミー・プリーズミー」が大ヒットしてこの年が全盛期だったような気がします。しかしこの元気まっしぐらの単純ハードロックがだんだん飽きられ1974年になると「Far Far Away」「エヴリデイ」のじっくり歌い上げるバラード路線も志向し始めましたが1970年代中盤以降はその人気は完全に失速してしまったのです。


■80年代で再度復活!(美しい音楽性で幅をさらに広げていった時代)
スレイドのサウンドと相対するパンク・ロック全盛時代の1970年代後半は低迷期を彷徨っていましたが、80年代に若手ヘヴィメタバンドがスレイド曲をカバーで大ヒットしたことで彼らのことが見直され再度ブームがやってきたのです。80年代の代表ヒット曲「ラン・ランナウェイ」(1984)は70年代のノリを復活させた快適なナンバーですが、80年代のJガイルズバンド的な雰囲気もあり余裕タップリな感じで「俺らは70年代を駆け抜けた派手なビジュアル系お馬鹿なバンドだったけど、今も息長く頑張っているんだぞー!」という貫禄も感じられます。TV番組ベストヒットUSAでもミュージックビデオにも出て最前線に戻ってきた彼らでしたが、音楽性はかなり変わっており「マイ・オー・マイ」(1983)などは「エッエッエッ!あのオチャラケバンドがこんな美しいバラードを歌うの!?」って目がテン状態の幅広い変化も見せていました。スレイドのバラード美曲路線はまだまだ続き「オール・ジョン・ハンド」(1984)もスケールが大きい名曲でファッションも落ち着き紳士な雰囲気になったなア・・とビックリしたものです。


■結成50年以上経っても、今なお頑張っている「スレイド」
日本での彼らの評価は非常に低い気がします。単純な音楽性と奇抜ヴィジュアルで10代子供向けバンドというイメージが強くあったからかもしれません。しかしスレイドは息長く生き残ったバンドで今年で結成53周年を迎えます。2017年には43年ぶりの再来日も果たし、お河童頭デイヴ・ヒル、ボーカルのノディ・ホルダーも73歳となりましたがいまだ現役で頑張っているのです。ローリングストーンズに並ぶような人間国宝的な年月の積み重ねではありませんか!最後の締め曲はお馬鹿バンドに徹していた70年代の最高名曲「カモン・ザ・フィール・ザ・ノイズ」(1973)で締めることにしたいと思います。



⇒次回は、「ビージーズ」特集の前編です。「マサチューセッツ」(1967)など美しきメロディで心を癒してくれた1960年代の名曲を紹介します。♪\(^◇^)/♪






★(213)イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー 「眠れぬ夜」  (1976年) (2019.3.31公開)



■青春時代に癒されたPOPデュオ「イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー」

「My Favorite Songs」(第48巻)_c0119160_08524524.jpg大学生時代(1976~79) の下宿アパート、FENラジオから流れてきた数々の優しいメロディ曲を与えてくれた「イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー」(名前が長いので以下「ED&JFC」と表記)・・、大好きだった彼らを取り上げた記事は、2012年【第5巻】(045)で彼らの代表曲「秋風の恋」 (1976)、僅か1回のみの紹介記事だけで、もう7年の月日が経ってしまいました。(大反省・・・)  ところで昨年11月に「想い出のサマー・ブリーズ」という名曲記事で紹介した「シールス&クロフツ」を覚えておられますでしょうか?実は当デュオメンバーのジム・シールズは、イングランド・ダン(ED&JFCメンバー)の兄なのです。兄弟それぞれが結成した70年代デュエット達が奏でた名曲にRWは大いに心を癒して頂きました。ED&JFCの歌声を初めて聴いたのはRWが中学3年生(1972年の秋)、高校受験に向けて猛勉強中の合間に深夜ラジオから「シーモンの涙」という美しいメロディ旋律曲が流れてきたのです!当時、洋楽ポップスに首ったけだった中高生たちには胸キュンものの清廉爽やかなる作品だったものの日本だけでのヒットに終わり、その後数年彼らの名前を耳にすることはなくスマッシュヒットの一発屋だったかと完全に思っていました。本場米国でも「ケイシー」等のシングルを出すものの全く泣かず飛ばず・・。しかし1976年に「秋風の恋」が大ヒットして一挙にビルボードチャートを駆け上がり大ブレイクを果たしたのです。RW大学入学で上京した下宿のラジオから毎日流れており、「ついに復活してくれたか!」と嬉しかったネ~!実はイングランド・ダン(本名ダン・シールズ)は、2009年3月末に癌で亡くなっており、丁度10年の節目を迎えた今、再び彼らの名曲をじっくりと掘り起こしたいと思い立ちました。前編(1976~77年)と後編(1978~1981年)の2回に分けて、癒しの名曲を沢山お届けしたいと思います。


■一躍大ブレイクした1976年名盤「Nights Are Forever」
1970年A&M契約でデビューしたED&JFCですがアルバム3枚をリリースするも全くヒットに恵まれませんでした。しかしその低迷を脱出してブレイクしたのが4作目1976年名盤「Nights Are Forever」(邦題「秋風の恋」)でした。初期イーグルスっぽいフォークテイストな洗練されたバラードなど、売れるべくして売れた名盤には珠玉の名曲が満載です!彼らの代表曲「秋風の恋」にあわせて、冒頭に掲載した「眠れぬ夜」も2週連続でチャート10位を記録しました。次に紹介する美曲は「プリズナー」、2人の澄んだ透明ボイス・合間に流れる弦楽器のコラボが実に感動的なんですよネ~!「レイディ」も心が癒される落ち着いたスイートなバラード、この曲を聴いているとまったりとしたよき時間が流れます。さて、今度はコテコテのカントリー曲「ショーボート・ギャンブラー」が登場!洗練されたED&JFCの洗練された美曲ナンバーを聴きこんできたRWにとって、伝統的カントリーを前面に押し出した曲はある意味で新鮮な印象で希少価値の名曲かも・・。でも彼らの原点はカントリーなので当たり前なのですが・・。さて次の掲載曲は、またまた一転して爽やかなるウエスコーストサウンドの典型曲「そよ風は西へ」(Westward Wind)や 優しき歌声がゆっくりと流れる「Where Do I Go From Here 」も素晴らしいナンバーです。ED&JFCは80年代AOR曲の先駆けを担っていた新旧の音楽シーンを橋渡し的な存在でもあったのです。彼らの守備範囲非常に広くスケールの大きな感動曲も披露していました。「ロングウェイ・ホーム」は故郷を想うフォークテイストが溢れる曲ですが、壮大曲を作り上げる高邁なる意欲と丁寧なアレンジの見事さには感心させられるばかりです。


■1977年「二人のフェリー・ロード」からの名曲
次は5枚目アルバム「二人のフェリーロード」からの名曲紹介に移りしょう。「悲しみのかなたに」(It's Sad To Belong)は2人のハモリが見事な素敵曲、歌詞はビミョーな内容で「運命の人と出会った時に…僕はもう結婚が決まってしまっている・・、嗚呼タイムマシンがあったらなあ(泣)」という悩ましい恋心が揺れています。 「青春の日々」(gone too far)は当名盤から輩出した大ヒットナンバー、この曲も大学2年生・四畳半下宿のラジオから毎日聴いていた懐かしの名曲です。 「フォーリング・スターズ」は夜中に流れ星を仰ぎながらセンチメンタルに浸る哀愁ナンバー! イングランドダンとは、ビートルズに感化された若き日のダンがニックネーム採用したとのこと。基本的にカントリーが音楽ベースとなっているED&JFCですが、泥臭い曲はなくPOPで洗練された味付けと壮大なコンセプト曲が多い点でもビートルズにも影響を受けていたのかもしれません。前編紹介のLAST曲は、RWが大好きな「ソルジャー・イン・ザ・レイン」で締めたいと思います。「雨の中の兵士」という題名ですが歌詞内容は都会に身を置いた自分を歌い上げたものでした。「朝の霞があたりを覆う中、僕は橋の上に立つ。もうここに来て何年が過ぎただろう。僕はどれ程変わったのだろうか?走りまわるタクシー、乗り換えを尋ねる盲人、僕はここに立つ、雨の中の兵士 」・・・。ピアノとストリングスが織りなすスケール大きいメロディアス曲、後半はさらに変調展開して重厚な管弦楽で荘厳に締めるプログレ的名曲です!
後編では1978~1981年の洗練された数々のデュオ名曲、そしてダン・シールズのソロ名盤「ストーンズ」からの名曲を紹介していきます。いつ掲載されるか未定ですが気長~にお待ちください。



⇒次回は、グラムロックに分類されたオチャラケ雰囲気ハードロックバンド「スレイド」の代表曲「クレイジー・ママ」(1972)を紹介します。



  # by rollingwest | 2004-01-12 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(160)

「My Favorite Songs」(第47巻)



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★(212)ホイットニー・ヒューストン 「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」 (1985年) (2019.3.12公開)



■ホイットニー・ヒューストンの伝記映画を鑑賞
「My Favorite Songs」(第47巻)_c0119160_21281088.jpgまた今回も映画鑑賞からの執筆記事(今回でLAST)となります。1980~90年代を代表する女性歌手ホイットニー・ヒューストンの伝記映画「オールウェイズ・ラヴ・ユー」を1月に観てきました。第47巻(本記事)の一番下にも記載しましたが、ここ2ケ月間でクイーン「ボヘミアン・ラプソディ」、エリッククラプトン「十二小節の人生」、レディガガ「アリー/スター誕生」に続く4本目の洋楽映画でした。人気沸騰となった「ボヘミアン」「アリー」はアカデミー賞受賞に輝きましたが、クラプトンとホイットニー・ヒューストンの2つは殆ど話題にならずにあっという間に公開が終わってしまった感じです。人生暗部を描いたドキュメント映画という点で華やかさがなかったからかなあ・・。まだクラプトンの方は薬物中毒を乗り越えて家族との幸福人生がハッピーエンドで描かれていましたが、ホイットニーは最期は薬物摂取で48歳の急死という悲劇が結末だったので非常に暗い気持ちで鑑賞した映画でもありました。ホイットニー・ヒューストン財団の全面協力により、初公開ホームビデオ映像や貴重なアーカイヴ映像や記録写真が多く使われ、数々の証言(親族・スタッフ、元夫のボビー・ブラウン、映画共演ケヴィン・コスナーらも登場)で彼女の苦悩や裏話が淡々と語られていました。 80年代後半から洋楽に遠ざかり始めた自分自身にとっては、頭の中が再整理ができて非常に勉強になったので、今回の映画鑑賞を機会にホイットニーの波乱万丈人生や名曲ともに執筆したいと思います。


■ホイットニー・ヒューストン衝撃のデビュー!(1985)
ホイットニーは世界で最も売れた歌手の1人、全米No1が11曲、累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上、その声は「強力で鋭いポップ・ゴスペル」とも称賛されました。母親がゴスペルシンガーのシシー・ヒューストン、従姉はディオンヌ・ワーウィック、ホイットニーの名付け親がアレサ・フランクリン、というまさに歌手になるために生まれてきたような生粋のサラブレッドです。10代から母親やアレサからボーカル指導を受け、15歳でチャカ・カーンのバックコーラスを務めるなど歌手として本格始動。そして1985年デビューアルバム「ホイットニー・ヒューストン」(邦題:「そよ風の贈りもの」)をリリースすると、一挙にビルボード1位を記録していきなり爆発的人気を獲得しました。デビューから7曲連続で全米シングルチャート1位はビートルズ(6曲連続)を超える新記録でいきなり快挙を成し遂げたのです。全米NO1第1曲目は「すべてをあなたに」(Saving All My Love for You )(1985)、そして2曲目の全米1位が「恋は手さぐり」(How Will I Know)!当時の面影はどこか幼さも感じますが、歌唱力は20代前半とは思えない本格派だったことを改めて思い知らされます。3曲目が冒頭掲載曲「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」。70年代~80年前半の洋楽派はジョージ・ベンソンの歌というイメージが強いかもしれませんが、ホイットニー・ヒューストンが生前最も大事にしていた曲だったそうです。


■さらに爆発的なセール!「ホイットニーII~すてきなSomebody」(1987)
その勢いは止まることなく、2年後にリリースした2ndアルバム「ホイットニーII~すてきなSomebody」は全米NO1を4曲も輩出するモンスター的名盤となりました。表題にもなったシングル「すてきなSomebody」は、シンディ・ローパの如く弾けるようなハイテンポでノリノリの歌、大いに元気が貰える全米N01の5曲目でした。新婚時代に社宅アパートのラジオから流れていた懐かしい30歳前時代の思い出曲です。続くは大ヒットした美しきバラード「恋のアドバイス」(Didn't We Almost Have It All)、切なく別れる前の未練を歌うラブソングでした。次の6曲目全米栄冠は、再びノリノリの「やさしくエモーション」、マイケル・ジャクソン風のアップテンポなダンス曲でした。7曲連続NO1の最後を飾ったのは「ブロークン・ハーツ」、恋が終わってしまいそうな悲しみを歌い上げています。本アルバムには1位にはならなかったものの、名曲「いつもあなたと」も収録されています。この2ndアルバムは洋楽史に燦然と輝く名曲オンパレードの歴史的名盤だったんだなあ・・!とその凄さを再認識した次第です。


■豪華アーティストとの共演・デュオ名曲の数々
次は彼女のデュオ名曲をいくつか紹介したいと思います。まずは、彼女の従姉妹ディオンヌ・ワーウィックとの共演「Love Will Find A Way」。ディオンヌはご存知「We Are The World」にも参加した伝説的ソウル/R&Bシンガーで現在まで1億 5,000万枚以上のセールスとグラミー5冠という輝かしいキャリアを誇っています。彼女との共演は「愛のハーモニー」(That's What Friends Are For)(1986)も入れておきます。この曲はスティーヴィー・ワンダーの共演バージョンが有名ですね!次は母親シシー・ヒューストンとのデュオ「アイ・ノー・ヒム・ソー・ウエル」、(1987)ホイットニーにとってゴスペル歌手だった母親の影響や励ましは実に大きいものがありました。シシーにとっては手塩をかけて育った娘が世界的大スターになって親子共演ができて一番幸せな時代だったと思います。次はマイケル・ジャクソンの兄ジャーメイン・ジャクソンとのデュエット「If you say My Eyes are Beautiful」(1985)(不倫の仲にあったとの噂も・・)、そして最後は今はお宝物映像となった世界の歌姫マライア・キャリーとのデュオ「When You Believe」(1993)、歴史的大スター2人の豪華共演をお楽しみ下さい!


■忍び寄った不幸、衝撃的なホイットニーの死
このドキュメンタリー映画はホイットニー・ヒューストン人生の赤裸々な光と闇が交錯していました。映画「ボディガード」の主題歌が大ヒットした1992年がまさに栄光の頂点でしたが、そこからは彼女の人生は崖を転がり落ちていきました。表面的は華やかな彼女の人生にこれ程までにドロドロな隠された不幸の歴史があったとは・・!と驚きでした。今回の映画制作で暴露された醜聞の数々、夫ボビー・ブラウンとの離婚、親友との絶交、実父の背信、そしてアルコール・薬物依存の泥沼状態に嵌り、2012年に48歳で亡くなるまで彼女の後半生はまさに悲惨というしかありません。また幼少期に従妹従ディオンヌ・ワーウィックから性的虐待を受けていたとの疑惑が浮上、母親シシーが「私たちはその事実に激しい衝撃と戦慄を受けた!」との声明発表しています。ディオンヌは否定しましたが、彼女自身も数年前に税金滞納指摘を受けて自己破産状態とのこと、まさに踏んだり蹴ったり・・(泣)「人生は平凡であっても健康平常で過ごせて終わりよければ全てよしだなあ」・・と再認識した次第です。


■LAST締めは「映画ボディガード」2名曲&スーバーボウル国歌斉唱
やはり最後は彼女が栄光の頂点を極めた時代の歌声で締めることといたしましょう!1992年の映画「ボディガード」はホイットニーが俳優ケビン・コスナーと共演した愛のサスペンス映画!その主題歌は「I Will Always Love You」でこの曲は何と14週も首位を維持し続けていた驚異的なヒットを記録して今回ドキュメント映画のテーマ題名ともなっています。2大スターの競演と、ロマンティックな内容で映画は全世界で大ヒットを記録しました。もう一つのサントラ曲「アイ・ハヴ・ナッシング」も至高のラブストーリーを華やかに彩りました。LAST締め曲は「スーパーボウル」(1991)でホイットニーが歌い上げた「アメリカ国歌斉唱」!彼女の人生末期は痛ましいものではありましたが米国民の心を支えた偉大なる栄光のアーティストでした。天国でもまた素晴らしい歌声を聞かせてくれていることでしょう!



⇒次回は、70年代の名デュオ、癒し音楽に溢れたイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーの「眠れぬ夜」(1976)を紹介します。










★(211)キング・クリムゾン 「ムーン・チャイルド」 (1969年) (2019.2.24公開)

    ~「月をテーマとした名曲特集」~



■人類初の月面着陸50年を迎えて、再び「月」の名曲に想いを馳せてみる
「My Favorite Songs」(第47巻)_c0119160_10363418.jpg1969年、人類が初めて月面着陸の夢を実現してから今年7月に50年節目を迎えます。初めて月に降り立った男ニール・アームストロング(アポロ11号船長)は「人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ!」という名言を残した偉人となりました。アポロ11号月面着陸とアームストロング船長の人間ドラマを描いた話題の映画「ファーストマン」(2月公開)を早速鑑賞してきました。ロケット内の緊迫感や月面着陸を再現した映像はリアル感満載の大迫真映像&音響、まさに自分が体験しているかの様な疑似的臨場感に圧倒されてしまいました。この映画はアカデミー賞の視覚効果賞を受賞(2月25日)しており十分納得の限りです!半世紀前、人類初の月面着陸の大快挙を刻々と中継したニュース映像は世界40か国・5億人以上の人々が見ていたといわれます。当時、RWは小学6年生でしたが、日本国民もこの偉大なる快挙で物凄い盛り上がりだったことが昨日のように思い出されます。この時代の洋楽ヒット曲も宇宙への憧憬を歌った名曲が多く、今は亡きデビッド・ボウイが「スペース・オデティ」(1969)、その3年後にはエルトン・ジョンが宇宙に思いを馳せる「ロケットマン」(1972)が大ヒットしています。今年初夏にはエルトンが自分の人生を振り返る同名映画が公開されますが、アポロ11号が快挙を成し遂げたタイミングに合わせて公開されたら大きな反響があることでしょう!そんな節目を契機として、今回RWも「月」を題名にした洋楽特集として(1950年代~1990年代)、20数曲の名ナンバーを古い順番から一つ一つ紹介してみたいと思います。選曲にあたってはわがブログメイトの実験鼠様やその他の皆様から推薦・リクエストを沢山頂き追加もさせてもらいました。洋楽ブログメイトの皆様から多大なるご協力を頂いたことに感謝申し上げます。


■「月」表題の1950~60年代のオールディズ名曲
まずは半世紀以上前のしっとりとした古典名曲から紹介を始めていきましょう。ジャズのスタンダード・ナンバーをドリス・デイがカバーした曲「フライ・ミー・トゥ・ザムーン」(1954)をトップバッターとしました。「私を月に連れて行って・・」の曲題名は「私をスキーに連れてって」とはスケールが余りに違うロマンティックなオールドスタンダード。次は軽快なブルースリズムのギターを弾きながら「青い月よ、輝き続けてくれ!」と歌うエルビス・プレスリーの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」(1956)の登場。この時代で最も有名な曲はアンディ・ウィリアムスが静かに歌い上げた「ムーン・リバー」(1962)でしょう。アカデミー賞に輝いたオードリー・ヘプバーン主演映画「ティファニーで朝食を」の主題歌ですからね~!大御所アンディ様が2012年に亡くなっていたことを今回記事執筆の中で初めて知りました。(合掌)・・。上記曲と比肩する有名な1960年代名曲といえばビートルズの「ミスター・ムーンライト」(1964)を外すわけにはいきません。この頃のビートルズははライブ中心の粗削りでしたが、心和む雰囲気で実にいい感じで演奏しています。そして1960年代後期になるとロックはサイケデリックやドラッグトリップが主流となり、ドアーズの「ムーンライト・ドライブ」(1967)にもそんな時代背景の影響が十分窺えます。ブレイクする以前のCCRは泥臭くカントリーな雰囲気で「バッド・ムーン・ライジング」(1969)を4人で歌い上げていました。2年後に3人構成バンドになって来日して一挙に人気が沸騰!


■「月」表題の1970年代曲
1970年代に入ると心癒される曲調のナンバーが増えてきました。キャット・スティーブンスの「ムーン・シャドウ」(1971)は彼の代表曲「雨にぬれた朝」と同時期でヒット、優しい歌声とハートウォームな曲メロ作りと幾分哲学&宗教的な色合いが滲む歌詞が印象的です。モンキーズのマイク・ネスミスが結成したファースト・ナショナル・バンドの「シルバームーン」(1971)はカントリー色が溢れる癒し心の名曲でした。ローリング・ストーンズの「ムーンライト・マイル」(1971)は全英、全米1位に輝いた70年代初頭のストーンズ名盤「スティッキー・フィンガーズ」に収録されていた隠れた静かなる名曲です。古いオルゴールを聴いているかのようPOP感溢れるキング・ハーベストの名曲「ダンシング・イン・ザ・ムーンライト」(1972)も忘れることはできません。一発屋のNYバンドでしたが、哀愁溢れるメロディが美しい秀逸曲はドゥービーズやオーリアンズの雰囲気があり曲はRWの脳裏に強く残り続けています。大学1年時代にFENラジオから毎日のように聴いていたのがスターバック 「恋のムーンライト」(1976)・・・、あ~何と懐かしい~!そして70年代末期、ジョージハリスンが「ヒア・カム・ザ・サン」に対比させ作曲した「ヒア・カム・ザ・ムーン」(1979)は彼の人生後期名盤「慈愛の輝き」の中でしっとり歌い上げていました。ホワイトアルバムやアビーロードで華開いたジョージの才能がしっとり成熟していた時期でした。同じ年にヒットしていたのがスティングの名盤「白いレガッタ」からのシングルカット「ウォーキング・オン・ザ・ムーン」(1979)、さらにアン・マレーの「月影のふたり」(1979)も毎日大学時代に下宿アパートのラジオアから流れていた懐かしの名曲!


■「月」表題の1980~90年代年代曲
1980年代に入ると「月」テーマ曲は色々なジャンルのバンドで歌われバラエティさを増していきました。POPの魔術師ジェフ・リンを中心とするELO(エレクトリック・ライト・オーケストラ)が月旅行に思いを馳せた「チケット・オブ・ザ・ムーン」(1981:アルバム「タイム」収録)は心が洗われる名曲です。そういえば最近「月旅行に行くぞ」と放言していたZOZO・前澤社長と剛力彩芽の近況やホリエモンの動向が気になります。次は一転して、しゃがれた骨太な声のR&B・カントリーのロックおじさんボブ・シーガーが歌っていた「月に吠える/Shame On The Moo」(1982)も外すことはできません。噛めば噛むほど味が出るスルメのような哀愁曲は心が癒されます。マイク・オールドフィールドの「ムーン・ライト・シャドウ」(1983)も心に残る名曲、いかにも80年代らしい明るいヴォーカルを務めたのはマギー・ライリーという女性歌手で、この曲は欧州全土を席捲した大ヒットとなったのです。ブログメイトのミュウ様から紹介いただいたオジー・オズボーンのヘヴィメタ曲「月に吠える/Bark at the Moon」(1983)も追加いたします。RWのお気に入り80年代ナンバーは、スティックスの名ボーカリストだったデニス・デ・ヤングのソロ名曲「デザート・ムーン」(1984)、実に素晴らしい曲だったなあ・・・!さて次は90年代、ニール・ヤングが月テーマ曲で復活していたことは殆ど知られていませんが、「ハーベスト・ムーン」(1992)はまさに1970年代初頭フォークロックを再現したノスタルジア感が満載の癒し曲です。


■「月」表題の冒頭曲&LAST締め曲(プログレ歴史的名曲を!)
冒頭に掲載した曲はキングクリムゾン(プロレシッブロックの栄光バンド)の歴史的な金字塔デビュー盤「クリムゾンキングの宮殿」に収録された「ムーンチャイルド」(1969)です。2月中旬に夜空で大きく輝いたスーパームーンも大きな話題となりましたが、本ナンバーは皆既月食で満月が影で覆われていく様な不思議な幻想的な曲でした。LAST締め曲はピンクフロイドの歴史的ロック名盤「狂気」の「ダークサイド・オブザ・ムーン」「ブレイン・ダメージ」(1973)で締めることといたしましょう。彼らの8作目表題名は「月の裏側」、「人間の奥底に潜んでいる闇」を示しているとも云われるロック史に輝く金字塔コンセプト盤は、発売から46年経過しても売れ続けている超ロングセラーアルバムです。さて月のテーマで綴った特集記事でしたが、5ケ月後(7月下旬)にアポロ11号 月面着陸50周年を迎えます。このタイミングに合わせ、月と陰陽をなして「太陽をテーマとした名曲特集」を企画する予定です。

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⇒次回は、ホイットニーヒューストンの伝記映画を見て感銘!彼女の代表曲「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」(1985)を掲載します。







★(210)レディ・ガガ&ブラッドリー・クーパー  「シャロウ」 (2018年) (2019.2.9公開)



■洋楽関連の映画が続々と公開!本当に嬉し過ぎますね~!

昨年末から数々の洋楽映画が信じられない程のオンパレード集中公開となっており、実に嬉しいことですね~!クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」は昨年2回鑑賞し、12月はエリック・クラプトンの伝記映画「十二小節の人生」、今年になってレディガガ「アリー/スター誕生」とホイットニー・ヒューストン伝記映画「オールウェイズ・ラヴ・ユー」を立て続けに鑑賞しました。2ケ月間で洋楽関連の映画を5本も見ちゃうなんて人生初めてのことでした。さらに今年初夏にはエルトン・ジョンの伝記映画「ロケットマン」、夏は「ウッドストック」の50周年記念フェスティバル開催、そしてビートルズのドキュメント映画「レットイットビー」(監修がポール、リンゴ、オノ・ヨーコ、ハリスン夫人)公開予定のニュースも最近入ってきて、もう凄い年というしかありませんね~!まあ1969~1970年はロック史特筆の時期でもあり、その50年の節目を迎えることから当然の流れかもしれません。


■レディ・ガガ主演の映画「アリー/スター誕生」を鑑賞して感動!
「My Favorite Songs」(第47巻)_c0119160_16254293.png昨年12月21日公開された「アリー/スター誕生」はゴールデン・グローブ賞で主要部門を含む5部門にノミネートされ、全世界の興行収入は500億円近い大ヒットを記録しています。RWにとってレディー・ガガといえば電子音・テクノビートでノリノリに激しくダンスする元気なオネーチャンというイメージしかありませんでした。一時は見るも耐えぬ肥満体形になって、ド派手メークで踊りまくる彼女の姿には全くついていけず、先入観から相当距離感をもっていました。しかし今回映画で、彼女の魂をぶつけるような名演技(信念と希望を強く持つ女性、しっとりとした愛情表現)と圧倒的な歌唱力を目の当たりにして本当に唸らせられてしまいました。まずは映画名曲の一つ「Always Remember Us This Way」を聴いてみて下さい。ホイットニー・ヒューストンやセリーヌ・ディオン、アデル等に比肩する正統派シンガーの如し!「I Don't Know What Love Is」はジャズシンガーが歌うようなしっとり感、彼女は実に幅広い感性と実力を持った素晴らしい歌手なんだなあと感動して、新たな側面・魅力を知って一挙嵌ってしまいました。映画俳優ブラッドリー・クーパーが初の映画監督を指揮し、歌手ガガは初の女優に挑戦!共演者2人がお互いが化学反応を起こし奇跡的な高完成度の感動名画に仕上がっていました。冒頭に紹介した「アリー/スター誕生」のテーマ曲「シャロウ」は彼女が聴衆前に引っ張り出されて熱唱を初披露してスター歌手の道を歩み始めるきっかけとなった場面です。Aメロをブラッドリー・クーパーが歌い始め、続くガガが美しいBメロを披露。メロを繰り返した後で一気にキーが上がりサビへ突入!ガガの伸びやかな声で歌うバラード・圧倒的な表現力が冴え渡りクライマックスを迎えます。感動的なエモーションの高まりの極みはデュエット曲でありながら、最終的にはガガの熱い独唱状態で聴衆を魅了しています。


■映画のあらすじ&名シーン紹介
歌手を夢見ながら昼はウエイトレスとして働き、夜は小さなバーで歌っていたアリー(レディ・ガガ)、音楽の才能に恵まれた女性でありながら脚光を浴びることなく年齢を重ねていました。国民的なロック歌手ジャクソン・メイン(ブラッドリー・クーパー)がコンサートツアーで夜の街に飲み出て、バーで名曲「ラヴィアン・ローズ」を艶めかしく堂々と歌い上げるアリーに出会います。ジャクソンは彼女の才能に惚れ込み一目惚れしてしまい、飲みに誘い出して「今度自分のコンサートに来てくれ」とアリーを誘い出しました。ある日彼女は働いていた職場への不満が爆発して会社を辞め、ジャクソンのコンサートに駆け付て彼の迫力ある演奏に圧倒されました。ジャクソンは、来場した彼女を見つけて半ば無理やりステージに上げ、アリーとの共作曲(冒頭掲載「シャロウ」映像シーン)を見事デュエットで歌い上げ聴衆を魅了したのです。衝撃的デビューを果たしたアリーはあっという間にスターの階段を駆け上がっていきます。慢性アルコール中毒のジャクソンが色々な問題を起こしながらも、2人は紆余曲折を乗り越えてついに結ばれ夫婦となります。「Look What I Found」を歌っていたシーンあたりが最も二人の心がマッチし最高に幸せな時代だったと思います。その後アリーは大物プロデューサーにスカウトされて新生ポップスターとしてキャリアを積んでいく一方、ジャクソンはアルコール中毒が悪化し凋落していきます。アリーは音楽路線転換し髪をオレンジに染めて激しいセクシーダンス(まさに皆がイメージするレディ・ガガ本来の姿)で「Why Did You Do That?」を披露していきます。そんなアリーの姿を見て、泥酔したジャクソンは怒りが収まらず「あんな曲を歌うなんて恥を知れ!醜い女」と罵倒、侮辱されたアリーは叫んで喧嘩別れし、2人の愛はこじれて冷え切っていきました。そんなある日、暫く距離を置いていたジャクソンがアルコール中毒で死を迎えた悲報が彼女のもとへ・・。アリーは後悔と悲しみに打ち震え「自分をスターに引き上げてくれ、愛し合った夫がこんな悲劇の結末をなぜ迎えねばならなかったのか・・」と嘆き悲しみ「Is That Alright?」を失意の中で彼への鎮魂歌を捧げるのです。


■俳優ブラッドリー・クーパーの素晴らしいロックLIVE演奏シーン !
監督初挑戦の映画俳優ブラッドリー・クーパーが演じた歌手才能(演奏と素晴らしい歌唱力)にも驚くばかりでした。激しいロック演奏、カントリーPOPを弾き語るシーンはまるで本職の如し!今回の映画制作まで一度も人前で歌声やギターもピアノも披露したことがなかったと聞いて全く信じられません。アリーを初めて招いたコンサートで歌っていた激しいロック曲「アリバイ」や速弾きギタープレイを披露する「ブラック・アイズ」を聴いてみて下さい!何と見事なことか!ハードロック曲が主流のロッカーかと思えば、カントリータッチのアコースティック曲も静かに弾き語り幅広い音楽性を披露していました。冒頭の「シャロウ」も同様曲ですが、「メイビー・イッツ・タイム」は滋味深いカントリー風の味わい曲!俳優が、初めて映画監督とロック演奏に挑戦してこれだけの映画を作るなんて・・、天は2物も3物も才能を与えるんですね~!そしてもう一方のガガ様も然りでした!まさに2人の素晴らしい化学反応!


■「スター誕生」の映画歴史&LAST締め曲「アイル・ネバー・アゲイン」
映画「スター誕生」はリバイバル4作目でその歴史は80年以上を重ねています。第1作が1937年映画「スタア誕生」、2作目が1954年のリメイク版。この初期の2作品はハリウッドに憧れてやってきたヒロインが映画スターに駆け上がっていく映画業界を舞台にした作品でしたが、3作目(1976年)ではバーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンが共演した音楽スターの物語に変更しています。大学入学した当時、下宿アパート(四畳半)でバーブラの歌う主題歌「スター誕生・愛のテーマ」(アカデミー歌曲賞やグラミー賞最優秀楽曲賞)が毎日のようにFENラジオから流れていたことが懐かしい思い出となっています。ちなみにストライサンドの顔立ちはガガとよく似ています。2人とも目力があり、際立った鼻筋が印象的。ストライサンドもガガも下積時代にナイトクラブショーに出演しては叩き上げてきたキャリアがそっくりですね~!さて冗長になり過ぎた今回記事・・・、ラストを飾るガガ曲はジャクソンを愛するあまりお互いを傷つけてしまった後悔と悲しみを深く表現した感動曲「I'll Never Love Again」です。「もう二度と誰も愛さない・・・、彼と同じように誰かを愛することは二度とない」と、ガガが正統派歌手に戻って圧巻歌唱力で歌い上げるラストシーンに泣けました。2019年2月11日グラミー賞発表でついにガガ&クーパー最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞を受賞しました!アカデミー賞でも歌曲賞の栄誉に輝きよかった~!音楽と映画の権威ある賞に殆ど縁がなかった彼女、ついに悲願の獲得!誠におめでとうございます!



⇒次回は、キング・クリムゾン「ムーン・チャイルド」(1969)など月面着陸50周年を迎えて「月」をテーマとした名曲特集です。        



  # by rollingwest | 2004-01-11 00:00 | Comments(172)

「My Favorite Songs」(第46巻)


【My Favorite Songs】の過去紹介した記事一覧(INDEX)はコチラから

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★(209)ボストン 「ア・マン・アイル・ネバー・ビー」  (1978年) (2019.1.25公開)



■久々にボストンのことを思い出した昨年の秋
「My Favorite Songs」(第46巻)_c0119160_18081176.png2018年メジャーリーグのワールドシリーズはボストン・レッドソックスが5年ぶり9回目の優勝を果たしましたが、RWが40年前に大好きだったプログレハードバンド「ボストン」のことを昨年11月ふと思い出してしまいました。2011年に第1編(008) 「宇宙の彼方へ」を掲載したものの「実にあっさりした内容で終わりそれっきりになっていたなあ・・」と反省し、あらためて2019年の年明けにボストンの偉大さをじっくりとレポートしたいと思います。米国プログレハードの先駆者的でありデビュー早々からミリオンセラーを連発して全世界の総売上7500万枚以上を記録した伝説的なバンドは、創設者トム・ショルツが音楽全体をクリエイトする新手法ギターオーケストレーションを引っ提げて登場しました。自分自身も当初は米国バンドのイメージがなく、先進的なブリティッシュロックバンドと勘違いしていましたが、ボストンという土地がフロンティア精神と誇り高い英国文化(17世紀、英国から新天地を求め米国に移住)が残っており、そのDNAが息づいているからなのかもしれません。今回記事は、デビュー盤「幻想飛行」(1976)と2th名盤「ドント・ルック・バック」(1978)と合わせた初期2大名盤の合併特集号といたします。


■衝撃のデビュー名盤「宇宙の彼方へ」(1976)
ボストンサウンドとの初めての出会いは大学1年上京して四畳半下宿のFENラジオから流れてきた「宇宙の彼方へ」を聴いた時からでした。ギターのアルペジオが静かにフェイドインしていくイントロ、メロディアスな歌声から始まり美しくかつ肉厚重厚なギターサウンド、ドラマティックに展開する絶妙なアレンジ、「♪More Than A Feeling~!」・・、壮大なオーケストラを彷彿させるスケール感満載の骨太なロックサウンドに初めて触れて「何て素晴らしい曲なんだ!」と瞬く間に感動し虜になってしまいました。デビューシングルは全米チャートで一挙上昇、アルバム「幻想飛行」は全米3位を獲得し1年目で100万枚を売り上げアメリカン・ロックの新しい時代を開く歴史的作品となりました。本名盤でのRWのお気に入り曲は、締め曲で紹介する「ピース・オブ・マインド」、美しいメロディ・コーラスのポップかつ洗練された壮大なる名曲「ヒッチ・ア・ライド」、ハイトーンヴォイスが冴え渡るノリいいストレートなロック「サムシング・アバウト・ユー」、アコースティック・ギターから始まり、後半からスピードアップし軽快なロックンロールに変わって曲「レット・ミー・テイク・ユー・ホーム・トゥナイト」などがお勧めです。メロディの素晴らしさとハーモニーが醸し出す宇宙的な広がりを持つサウンドはまさに「幻想飛行」という邦題がピッタリ!こんな完成度を高いデビュー盤はキングクリムゾン「クリムゾン・キングの宮殿」、エイジア「時をかける詠時感」等との名盤と比肩すると思います。最終的に1600万枚を売り上げたデビューアルバムの記録としてはいまだに破られていません。


■壮麗なギター・オーケストレーションの生みの親「トム・ショルツ」
彼らの演奏曲は驚くことにシンセサイザーを一切使っていない奇跡のサウンドであり、それは「ギター・オーケストレーション」と呼ばれました。ボストンの独特なサウンドは創設者「トム・ショルツ」の高いミキシング技術と独自創造力によって生み出されています。トム・ショルツは(米国オハイオ州の出身)7歳からピアノを習い、マサチューセッツ工科大学卒という理系秀才は在学中にギターを独学で覚え、卒業後ポラロイド社に就職してプロダクトエンジニアとなった異色の経歴者です。仕事の傍ら、電気工学知識を生かして自宅アパートに多重録音スタジオを構築、そこで作り上げたデモテープがCBSレコードに認められて契約に至りました。彼はまさに完璧主義者、多重録音された演奏を丁寧にミキシングし丹念に細かい編集作業を綿密に行いながらアルバム制作を進めてきました。ボストンサウンドの魅力は、工学技術士に裏付けられた多重録音だけではなく、アコースティックとエレキギターがバランスよく混合しています。ノリのいいロックンロールあり、メロディアスで透明感あるハイトーンボイスの美しいコーラスあり、曲構成もバラエティに溢れており全く飽きない内容に仕上がっています。トムショルツの才能豊かな発想力このセンスのよさも、壮麗なギター・オーケストレーションを生む出す源泉となっていたのです。


■珠玉の名曲満載、2nd「ドント・ルックバック」(1978)
凄まじく大ヒットしたデビュー盤の次作品リリースは非常に大きなプレッシャーがあったに違いありません。ボストンのアルバム制作頻度は8年に1回のペースですが、2nd盤はデビューから僅か2年後(1978年)リリースという極端に短期間でした。レコード会社から早く次の作品を出せと相当な圧力がかかっていたのかも・・。しかしRWは2nd盤「ドント・ルックバック」こそがボストンの最高傑作だと思います。内容はデビュー盤で展開された音楽世界の延長線上にありますが、最初から最後まで一切の捨て曲がない超名盤なのです!A面は全米1位を記録した表題曲「ドント・ルック・バック」から始まり、続くインストルメンタルの「ザ・ジャーニー」 ~「イッツ・イージー」(ノリノリのロックナンバー)と流れるような展開する連続曲、そしてA面のLASTを飾るのは冒頭に掲載した「ア・マン・アイル・ネバー・ビー」(表題は私が絶対になれない偉大なる男)、この壮大なスケール感と美しさは群を抜いた秀逸曲であり、70年代を代表する名曲と称賛する声も実に多いのです。アルバムB面は「フィーリン・サティスファィド」から、「パーティ」へと繋がっていき、爽快感満載でノリのいい曲が続きます。2nd名盤「ドント・ルックバック」はまさに珠玉の名曲満載、40年以上経った現在も全く色褪せることがない金字塔的なアルバムとして今も燦然と輝き続けています。


■アルバム制作の活動姿勢、その後のボストン
非常に聴きやすいサウンドで商業的な大成功を収めたボストンも「産業ロック」と呼ばれてしまいました。大手のCBS所属し、キャッチーでポップなメロディラインのロック・サウンドだったため、TOTO、フォリナー、カンサス、スティックス、ジャーニーらと同様に商業主義・大衆迎合的なロックだと批判を浴びたのです。しかしRWはボストンに関してはこの評価に全く同意しません。アルバム制作方法は超マニアックで完璧さを求める究極の拘り姿勢、アルバム発売のペースも常識外に遅いことを見ればレコード会社の商業意向に完全に反している頑固居士の職人気質としか見えないのです。ボストンは結成後40年以上となりますがオリジナルアルバムは僅か6枚しか出していません。3rd盤「サード・ステージ」(1986年)は、前作から8年間のインターバル、次の4th盤「ウォーク・オン」(1994年)もさらに8年間と普通では考えられない頻度の冗長さです。1982年にCBSがトムショルツに対して契約不履行として2000万ドル賠償訴訟が発生したこともアルバム制作が滞った原因になったのかもしれません。そして21世紀に入っても5作目「コーポレイト・アメリカ」が2002年、6作目の「ライフ、ラブ&ホープ」が2013年、ブランク幅はますます拡大傾向、次回新作発売は東京五輪(2020)が終了後の2020年代の半ばあたりって感じなんですかね~。


■初期2名盤特集の締め曲
ボストン1970年代特集の最後の締め曲は、デビュー盤「幻想飛行」2曲目に収録されている「ピース・オブ・マインド」(1976)にしたいと思います。アコギストロークのイントロで始まり、最後は骨太なエレキギターで単会する爽快なロックンロールナンバーです。このユーチューブは、ともに一時代を築いた盟友「スティックス」と共演している貴重なLIVEです。音楽家トム・ショルツの優れた才能(作曲、演奏、アレンジ)に彼の理系頭脳のエッセンスが加わった完成度の高い名曲はロック史の栄光として刻まれています。ボストンの次回特集は3rd盤「サード・ステージ」(1986年)4th盤「ウォーク・オン」(1994年)、その次は21世紀にリリースされた名盤曲特集みたいな感じで公開をしていきたいと思っていますので気長にお楽しみに~!



⇒次回は、レディ・ガガの主演映画「アリー/スター誕生」で歌われたサントラ名曲の紹介です。






★(208)エリック・クラプトン 「アイ・ショット・ザ・シェリフ」  (1974年) (2019.1.8公開)



「My Favorite Songs」(第46巻)_c0119160_22264030.jpg■2019・新年ご挨拶
2019年もスタートを切り「RW洋楽コーナー」へのご愛顧も引き続きよろしくお願いいたします。昨年11月封切のクイーン映画「ボヘミアン・ラプソディ」は全世界で大ブレイクして老若男女が世代を超えた人気となっていますが、12月に公開された「エリック・クラプトンの波乱人生を描いた「12小節の人生」はあまり話題にもなりませんでした。やや寂しい気持ちもありますが、RWも含め往年のロックファンにとってはお宝物の素晴らしい名画だったのではないかと確信します。

■クラプトン波乱の人生
1970年代前後では世界3大ギタリストと評されその後グラミー賞を18回受賞し、長年ロック音楽界を牽引し続けてきた世界的なスーパースター・エリック・クラプトン・・。自らが語った音楽人生と愛と魂の軌跡を描いた本映画は1960~ 1970年代の初期名曲特集という一面もあり、ヤードバーズ・クリーム・デレク&ドミノス時代、ソロでデビューしドラックや酒中毒に災悩まされ、その後復活して愛息を失うまでの彼の人生と名曲が続々と登場します。自分自身でもあまり整理されていなかったクラプトンの葛藤人生が時系列に理解できて非常に興味深く鑑賞しました。この機会にあらめてクラプトン特集記事を前編(1960~70年代)と後編(1980年以降)に分けてレポートしたいと思います。

■ブルースロックに目覚めた若き頃
ジェフベック、ジミーペイジと並ぶ3大ギタリスト・エリック・クラプトンの幼少期は母親に拒絶された少年時代の孤独、共にギターの腕を競いあった仲間たちの喪失等、苦い心の傷の場面から描かれていました。B.Bキング、マディー・ウォーターズらの黒人音楽に傾倒してブルース志向のバンド「ヤードバーズ」に参加し活躍しますが、最大ヒットとなった「フォー・ヨア・ラブ」(1965)がポップ路線に変節してしまったと嘆き、純粋なブルースを志向していたクラプトンは路線対立しバンドの脱退を決意します。黒人以上にブルースの真髄を掴み取って行った白人ギタリスとしての片鱗がこの頃に垣間見えています。その次は「ジョン・メイオール &ブルースブレイカーズ」(1965) に加わりレスポールギターで素晴しい技術を発揮して英国ブルースの中心的存在となりました。

■ハードロックバンドの歴史に輝く「クリーム」時代
1966年にはロック史に輝く伝説のバンド「クリーム」を立ち上げサイケデリックロックも融合した「アイ・フィール・フリー」(1966)をヒットさせて米国でも大旋風を起こしました。しかしブルース志向のクラプトンにとってはクリーム時代で最も目指したナンバーは彼が影響を受けたロバートジョンソンの代表曲「クロスロード」(1968)ではないかと思います。ジミ・ヘンドリックスやB.Bキングらとのセッションで次第に音楽界での交流を広げていったことも充実した時代であったことでしょう。メンバー同士の不和(ジャックブルースvsジンジヤ-ベイカー対立)に挟まれて1969年にクリームは解散してしまいましたが、「ギターの神様」や「スローハンド」(技巧速い演奏もスローに弾くが如し)と呼ばれるようになり天才ギタリスト「エリック・クラプトン」の名は世界に轟きロック界帝王へとのし上がったのです。

■伝説的なアーティスト達との豪華共演
映画の中では、B.Bキング、マディーウォーターズ、ジミヘンドリックス、ビートルズ、ローリングストーンズ、ボブディラン、アレサフランクリンといった錚々たるミュージシャンらが登場します。ビートルズのホワイトアルバム制作にクラプトンが参加しているシーンは非常に貴重で感動的!ジョージハリスンの作品「ギターは泣いている」にはクラプトンが参加して泣きのギターを聴かせていますが、コチラは「ホワイトアルバム50周年特集」よりジックリとお聴きください。

■ジョージハリスンの妻との不倫の恋
本映画のドラマハイライトは、クラプトンが親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドに恋してしまい葛藤と揺れる思いの描写連続。自分の心を抑え切ることができなくなりボイドに恋心を告白し一生懸命アタックしたものの願いは叶いませんでした。・・・、彼女への熱い想いを叩きつけた歌が、皆様ご存知、デレク&ドミノス結成の最大名曲「レイラ」(1970)でした。ロック史に燦然と輝く伝説曲はオールマンブラザーズバンドに在籍した故デュアン・オールマンとの共演が素晴らしすぎる~!デュアン・オールマンなどディラニー&ボニーを介して知り合った伝説的なミュージシャン、米国南部のメンバー達と自分の好きなブルースやR&Bに没頭したエリッククラプトンにとって絶頂期であり一番幸せな時代がだったことは間違いありません。

■ソロ時代の栄光と悲しみ
RWが洋楽に目覚めた1970年は、クラプトンにとっては「レイラ」を世に輩出し人生で最も衝撃的かつ人生の転機となった年です。同年夏に初のソロアルバムをリリース、「アフター・ミッドナイト」(1970)がヒット。デレク&ドミノスで交友を深めていたジミ・ヘンドリックスの名曲「リトル・ウイング」 (1970)年を弾いた数日後にジミヘンの突然の死、さらにデュアン・オールマンがはオートバイ事故で死亡(享年24)、連続する不幸にショックを受けたクラプトンは悲嘆に暮れて深刻な薬物中毒に陥っていったのです。

■70年代の復活と音楽性変化
アルコールと薬物依存のリハビリをしながら最悪状況から脱し健康を取り戻しカムバックしたのが1974年でした。冒頭に掲載したレゲエ調満載の「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が名盤「461オーシャン・ブルーバード」(1974)よりシングルカットされ全米NO1に輝いたのです。「レット・イット・グロウ」(1974)もアコースティックな響きが美しく淡々とした哀愁感がある名曲。かつての彼のイメージから一転して穏やかさとメロウなレイド・バック(癒し・寛ぎの意味)されたギター音色を聴かせるようになりました。名盤「スローハンド」からは「コカイン」(1977)というクリーム時代のサンシャインオブラブの雰囲気も十分たっぷりの名曲(麻薬に溺れていた彼の昔の心境を現したものか? )や、渋めの「レイ・ダウン・サリー」(1977)や「プロミセス」(1978)の様な心温まるカントリーフォーク系ナンバーも披露しています。

■前編の締め曲
前編最後の締めは名盤「スローハンド」からの名曲「ワンダフル・トゥナイト」(1977)、クラプトンのメロウな魅力が満載!この曲が生み出された背景は、恋焦がれていたパティ・ボイドが1977年にハリスンと離婚し、ついに彼女と結婚することができた喜びの歌でした。後編では1980年代以降の名曲特集をお送りします。その後パティ・ボイドと離婚、新しい女性関係から授かった愛する息子を事故で失ってしまう悲劇の到来・・、クラプトンの波乱人生はまだまだ続きます。



⇒次回は、1970年代ギターオーケストレーションで世界を魅惑したロックバンド「ボストン」の「ア・マン・アイル・ネバー・ビー」(1978)をお届けいたします。







★(207)ビートルズ「ヘイジュード」&ホワイトアルバム50周年(後編)(1968年) (2018.12.23公開)



「My Favorite Songs」(第46巻)_c0119160_10581305.jpg■2018・年末挨拶
2018年もあと残り僅か数日・・・、いよいよ今年も押し迫ってきましたネ~!一般記事は「年末狂歌レビュー」にて最後を締めましたが、洋楽記事のLAST投稿はビートルズヘイジュード50周年」をレポート。コンピレーションアルバム「ヘイ・ジュード」に収められた1968~69年の名曲とあわせ、第45巻「ホワイトアルバム50周年特集」で紹介しきれなかった曲も後編として掲載して2019年お正月を迎えたいと思います。

■「ヘイジュード」発売50周年
「ヘイジュード」はRWが中学1年で初めて買ったビートルズのEP盤(冒頭のレコードジャケット)であり、今もなお広い世代に聴き・歌い継がれているビートルズの代表曲の一つです。ビートルズ自身が設立したアップルレコードの記念すべき第1弾シングルとして世界的話題となり日本では1968年の秋に発売されました。米国で9週連続トップをキープ、第11回グラミー賞で数々の最優秀賞にノミネートされたビートルズ最大ヒット曲のアレンジは、前半部から大きく転調し後半はひたすら同じリフレインが続く大胆かつ斬新な構成で7分11秒という異例の長い曲でした。

■「ヘイジュード」の作曲背景
JUDEとはジョンと前夫人シンシアの間に生まれたジュリアン・レノン の愛称で、父と母の離婚問題で悲しみに暮れていたジュリアンを励ますためにポールが作曲したことは有名なお話。シングルレコードのB面は「レボリューション」(1968)でジョンは政治メッセージ色が強く革命を意味するこの曲をA面にしたいと考えていたようです。しかし結果的には「ヘイジュード」がメイン採用され、味わい深い歌詞・美しいメロディ、曲の背景にあるストーリーもファンの心を長くいつまでも捉える歴史的な名曲となったのです。

■ジョンレノンの新たな旅立ち
父親愛に恵まれなかったジュリアンはこの歌で心を癒されたと思いますが、皮肉なことに2ケ月後ジョンはシンシアと正式離婚を成立させ、ヨーコとの関係を公然化して彼女とさまざまな音楽活動や反戦平和運動を行いました。前衛的音楽やオール・ヌードのジャケットなど彼女との活動転換は衝撃的で違和感が大いにありましたが、ジョンは長く縛られた「ビートルズ」からの脱却を図っていのでしょう。

■アルバム「ヘイジュード」に収められたシングル名曲紹介①
さて次はコンピレーションアルバム「ヘイジュード」(1970発売)に収録された1968~1969年のスマッシュヒットの数々を紹介していきましょう。「レディ・マドンナ」(1968)は17枚目のオリジナルシングルでポールが作曲してリード・ヴォーカルを取り、ジョン&ジョージがコーラスを付けています。ポールによれば「レディ・マドンナは聖母マリアを想定して曲を書き始めたが次第にリバプールで働く労働者階級の女性に捧げる歌に変わった」と述べており、一説には「週末娼婦」という解釈もあるようです。18枚目シングル「ヘイジュード」の次にリリースされたのが「ゲット・バック」と「ドント・レット・ミー・ダウン」(1969)のカップリングでした。コチラは「レットイットビー50周年特集」(2020年公開)でLIVE映像(アップル社屋上で演奏したゲットバックセッション)をあらためて掲載する予定です。

アルバム「ヘイジュード」に収められたシングル名曲紹介②
20枚目のEPリリースは「ジョンとヨーコのバラード」(1969)、ジョンのソロナンバーかと思いきや実はビートルズ時代のヒット曲です。この直後ジョンは「プラスティック・オノ・バンド」を結成し「平和を我等に」を録音しています。同時カップリングのB面がジョージの作品「オールド・ブラウン・シュー」(1969)、当時はシングルリリースする曲のチョイスやA・B面をどちらにするか色々ともめることもあったんでしょうね~。

■「ホワイトアルバム」特集(後編)①
さて単発ヒット曲はここで終了し、これからは前回「ホワイトアルバム特集」から漏れてしまった渋い名曲を後編として紹介したいと思います。「アイ・ウィル」(1968)はポールらしい優しい ポピュラーナンバー、耳から離れなくなるような旋律・メロディ・歌詞もシンプルで親しみ易い印象の楽曲です。「ピギーズ」(1968)は、ブタの鳴き声(ブヒブヒ)が入るお茶目なユニーク曲でジョージがボーカルでジョン&ポールがコーラスを付けています。

■「ホワイトアルバム」特集(後編)②
次はジョンがブルース・テイストを効かせた渋い演奏が聴かせどころのロックナンバー「ヤァ・ブルース」(1968)、メンバー4人が揃って演奏し2晩もかけて70テイクも録音したというのですから相当リキを入れた作品と言えましょう。当時、ブルースを基盤としたアドリブ・プレイで人気が上昇していた「クリーム」(エリッククラプトンが在籍)を意識していたとも云われます。このユーチューブ映像は冒頭にジョンとミックジャガーが語り合うシーンから始まり、エリッククラプトン&キースリチャーズ等とブルースロックで共演した夢の様なレアなお宝物映像です!今月公開しているエリック・クラプトン伝記映画「十二小節の人生」を先日観てきましたがホワイトアルバム時代の録音セッションシーンやビートルズメンバーがクラプトンやストーンズらと共演する貴重な映像が続々登場して大感動でした。

■「ホワイトアルバム」特集(後編)③
さて、ホワイトアルバム好きのコアな皆様、いよいよお待たせいたしました!マニアックなファンには堪らない「レヴォリューション9」の登場です!サイケ調交響曲や様々な楽器の音をいじくりまわして逆回転、魔術の様なオカルト世界に嵌るような呟き呪文「ナンバー9、ナンバー9・・・」が繰り返さる声、遊び心に満ちた恐怖のプログレナンバーは深夜に一人で聴けば呪われてしまいそうな不気味さです。(笑)・・・。 

■2018年最後のお別れ曲
さ~て、2018年洋楽記事もそろそろ筆を置く時間が来ました。小生は12月10日に今月61歳の誕生日を迎えたので、マイ誕生日を「バースデー」の曲で勝手に自己祝福でもしてみるかな・・。還暦を過ぎたら普通の一日って感じ、最近は歳を取るのがとみに早くなってきた気がします。いよいよ今年もあと1週間、皆さんも慌ただしき日をお過ごしかと思いますが、2018年にお別れの気持ちを込めて「グッドナイト」(1968)にて今年の洋楽記事を締めさせて頂きます。来年もまた引き続きよろしくお付き合いの程よろしくお願い申し上げます。

「My Favorite Songs」(第46巻)_c0119160_10591230.jpg


★ビートルズ中期以降の50周年記事はコチラから     

 「ラバーソウル」特集(1965年) (2015.10.21公開)    

 「来日・武道館コンサート」特集(1966年)(2016.1.9公開)    

 「リボルバー」特集(1966年) (2016.6.23公開)     

 「サージェント・ペパーズ」特集(1967年)  (2017.5.17公開)  

 「マジカルミステリーツアー」特集(1967年)  (2017.11.5公開)  

 「ホワイトアルバム」特集(前編)(1968年)  (2018.11.4公開)  

 「ヘイジュード」&「ホワイトアルバム」特集(後編)(1968年)  (2018.12.23公開)  





⇒次回は、エリック・クラプトン映画「十二小節の人生」の鑑賞に刺激を受け、クラプトン特集(前編)「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(1974)をお届けいたします。




  # by rollingwest | 2004-01-10 00:00 | 洋楽(ロック・POPS) | Comments(174)

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